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総紫房の出現 1.本稿の目的 現在,木村庄之助の房色は総紫である。しかし,木村庄之助の房色は昔 からずっと総紫だったわけではない。総紫の前は准紫だった 。准紫の前 は紫白だった。紫白の前は朱だった。このように,木村庄之助の房色は変 わってきたのである。本稿では,准紫と総紫の二つに絞り,次のことを論 じる。 ! 木村庄之助の房色が准紫から総紫に変わったのは行司装束改正と同じ明治43 年5月場所である。階級色としての総紫や新装束の決定は明治43年1月下旬 だったが,その正式な使用は5月場所だった。したがって,階級色が決まっ たのは43年1月としてもよいし,5月としても間違ってはいない。本稿では 本場所の使用を重視し,5月場所としておきたい。 " 木村庄之助の階級色が総紫となったのは明治43年5月だが,その房色を免許 状で改めて授与したのか,それとも免許状以外の文書や口頭で許したのかは 定かでない。総紫は従来の准紫に混じっていた1本ないし3本くらいの白糸 を取り除くだけだったので,改めて免許状を出していないかもしれない *専修大学名誉教授 専修人文論集101号 2017201-224

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Page 1: 総紫房の出現 - CORE – Aggregating the world’s open access ...総紫房の出現 根間弘海* 1.本稿の目的 現在,木村庄之助の房色は総紫である。しかし,木村庄之助の房色は昔

総紫房の出現

根 間 弘 海*

1.本稿の目的

現在,木村庄之助の房色は総紫である。しかし,木村庄之助の房色は昔

からずっと総紫だったわけではない。総紫の前は准紫だった1。准紫の前

は紫白だった。紫白の前は朱だった。このように,木村庄之助の房色は変

わってきたのである。本稿では,准紫と総紫の二つに絞り,次のことを論

じる。

� 木村庄之助の房色が准紫から総紫に変わったのは行司装束改正と同じ明治43

年5月場所である。階級色としての総紫や新装束の決定は明治43年1月下旬

だったが,その正式な使用は5月場所だった。したがって,階級色が決まっ

たのは43年1月としてもよいし,5月としても間違ってはいない。本稿では

本場所の使用を重視し,5月場所としておきたい。

� 木村庄之助の階級色が総紫となったのは明治43年5月だが,その房色を免許

状で改めて授与したのか,それとも免許状以外の文書や口頭で許したのかは

定かでない。総紫は従来の准紫に混じっていた1本ないし3本くらいの白糸

を取り除くだけだったので,改めて免許状を出していないかもしれない2。

*専修大学名誉教授

専修人文論集101号(2017)201-224

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准紫とは紫糸の中に白糸が1本ないし3本くらい混じった房のことであ

り,総紫とはすべての糸が紫である房のことである。准紫は紫白の一種で

ある3。15代木村庄之助は明治25年頃に准紫を使用していたが,それをい

つから使用していたかは定かでない4。16代木村庄之助と6代木村瀬平も

ともに准紫を使用していた。その准紫がいつまで続いていたのかは必ずし

も明白ではない。本稿の目的の一つは,准紫がいつ終わり,総紫がいつ始

まったか,その期日を調べることである。

紫白の免許状では「紫白打交紐」という表現になったいた5。准紫の免

許状ではどう書かれていたのだろうか。実は,これがはっきりしない。准

紫から総紫に変わったとき,常に免許状が授与されたかどうかもわからな

い6。たとえば,16代木村庄之助が准紫から総紫になったとき,その新し

い房色は免許状で授与されたのだろうか。免許状ならその文面はどのよう

に総紫を表現したのだろうか。総紫は免許状以外の方式で許されなかった

だろうか。これを調べるのが本稿のもう一つの目的である。

2.准紫の確認

15代木村庄之助は准紫を使用していた。それは次の新聞記事で確認でき

る。

・ 『読売新聞』の「西の海の横綱と木村庄之助の紫紐」(M25.6.8)

「木村庄之助は代々家柄に依り軍扇に紫紐を用いるといえども(但し白2,3あいはばか

本打交ぜありという),熊本興行中は司家に対し相憚り紫白打交ぜの紐を用い

たりしもこの日(4月7日:拙稿)西の海の位に伴われ横綱方屋入り(土俵

入り:拙稿)を曳きゆる行司なればとて,当日限り紫紐の允許あり。続いて

同興行中は苦しからずとの特許ありたるため自然黙許のごとくなりたるが,

今回の両国大場所も同じく紫紐を用いる由(後略)」

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・ 『読売新聞』の「式守伊之助と紫紐の帯用」(M30.2.10)

「(前略)この度行司式守伊之助は軍扇に紫紐を帯用せんとて裏面より協会へ

申し出たりしに,協会においても紫紐房は木村庄之助〈15代:拙稿〉といえ

ども,房中に2,3の白糸を撚り混ぜ帯用することなれば,(後略)」

この15代庄之助は紫白の免許を授与されているが,吉田司家の黙許で准

紫も使用している。つまり,協会の許可は受けているが,吉田司家からは

正式の免許を授与されていない。吉田司家は准紫の使用を黙認していたの

で,ときどき黙許で使用していたと表わすこともある7。この黙許がいつ

まで続いたかは定かでない。15代木村庄之助には明治31年(明治30年:拙

稿)1月,紫に関する何らかの免許が授与されたという文献がいくつか見

られるが,それがどのような免許なのかは定かでない。

16代木村庄之助と6代木村瀬平は明治35年当時,ともに准紫だった。こ

れは次の記述でも確認できる。

・ 三木・山田編『相撲大観』(M35.12)

「紫房は先代(15代:拙稿)木村庄之助が一代限り行司宗家,肥後の熊本なる

吉田氏よりして特免されたるものにて,現今の庄之助(16代:拙稿)および

瀬平もまたこれを用いるといえども,その内に1,2本の白色を交えおれり」

(p.300)

また,吉田著『原点に還れ』(H22)には,次のような記述がある。

・ 吉田著『原点に還れ』(H22)

「江戸時代は吉田追風家門弟である木村庄之助には,軍配の房の色は緋房『深

紅色』を授与していた。当時,紫房は禁色で,吉田追風家の団扇にだけ認め

られていた。その後,明治31年,15代木村庄之助に対し23世追風善門が初め

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て紫分の団扇として紫房を授与し,それ以降今日に至っている」(p.135)

これは二つの点で事実を正しく反映していない。

� 15代木村庄之助は明治30年9月に亡くなっているので,「明治31年」は誤りで

ある。これは「明治30年」の勘違いかもしれない8。

� 15代木村庄之助に総紫が初めて許されたとあるが,この行司は総紫を授与さ

れていないし,後継者の16代木村庄之助も総紫を使用していない。16代木村

庄之助は,三木・山田編『相撲大観』(M35)にあるように,明治35年当時,

准紫だったからである。

これらの資料からわかるように,木村庄之助は確かに紫を使用していた

が,その紫は厳密には准紫だったのである。新聞や本では,ほとんどの場

合,准紫と紫白を一括りにして単に紫として記述している。この紫だけで

は,それが准紫なのか,紫白なのか区別できない。

さらに,その准紫にしても,最初からそれを授与されていたわけではな

い。最初は紫白を授与され,のちに准紫を改めて授与されている。そうな

ると,いつ紫白から准紫になったかを特定しなければならない。実は,こ

の特定が難しいのである。

3.紫白打交紐

三木・山田編『相撲大観』(M35)以降,木村庄之助の房色が准紫だと

明確に指摘してある文献は見当たらない9。私が調べた限り,すべての文

献は紫だと記述している。その紫が総紫なのか,それとも准紫なのかはわ

からないのである。たとえば,次の新聞記事では木村庄之助は紫となって

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いる。本稿で言及する行司のみを示す10。

・ 『東京朝日新聞』の「大角觝見聞記」(M36.5.29)

「・紫房・帯刀・土俵草履御免:木村庄之助,木村瀬平

・朱房・帯刀・土俵草履御免:式守伊之助11

・朱房三役格:木村庄三郎12,木村庄太郎13

・紅白幕内格:木村進14,木村小市15,木村朝之助16,(後略)」

この紫は総紫だろうか,それとも准紫だろうか。記事だけではどの紫な

のかわからない。それを知る手掛かりとして,次の新聞記事が参考になる。

・ 『東京朝日新聞』の「行司木村家と式守家」(M41.5.19)

「現代の行司にして古実門弟たるは木村庄之助と式守伊之助となり。両人の位

は庄之助が年長たると同時にその家柄が上なるを以て,先ず庄之助を以て上しるし

位とせざる可からず。軍扇に紫白の打交ぜの紐を付するはその資格ある験な

り」

これは吉田追風が語ったことを記事にしたものである。この記事による

と,木村家も式守家も同じ紫白打交紐である。つまり,房色は紫白であっ

て,総紫ではない。准紫と紫白はともに紫として扱うことがある。しかし,

准紫であろうと紫白であろうと,白糸は混じっている。

木村庄之助は明治35年にはすでに准紫を授与されていたので,それをそ

のまま明治36年5月に使用していたことになる。それは木村瀬平にもその

まま当てはまる。この記事からわかるように,少なくとも明治41年5月ま

では木村庄之助は准紫だった。木村瀬平も木村庄之助と同じように准紫で

あり,明治38年2月に亡くなるまでずっと准紫だった17。

吉田追風が語っているように(『東京朝日新聞』の「行司木村家と式守

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家」(M41.5.19)),明治41年5月頃には16代木村庄之助の「紫」は,厳密

には准紫だった。もしこの庄之助が当時,総紫だったなら,吉田追風は「紫

白打交紐」という表現をしなかったはずだ。それでは,いつごろ,木村庄

之助は准紫から総紫になったのだろうか。

4.行司装束改正

明治42年6月に国技館が開館し,その頃から行司装束の改正が話題に

なっている18。実際に装束が改正されたのは,明治43年5月である。その

際,装束の露紐や飾り紐などは行司の階級色と同じになった19。では,そ

の階級色はいつ決まったのだろうか。それがわかれば,木村庄之助がそれ

までの准紫から総紫になった時期もわかるはずだ。

行司の階級色が新しい装束の飾り紐と一致するようになったと言っても,

階級色が改めて大きく変わったわけではない。多くの階級色はほとんど変

わらないのである20。階級色が特に変わったのは立行司の房色であり,そ

の中でも木村庄之助の房色である。つまり,それまでは准紫だったが,そ

れが総紫に変わったのである。式守伊之助の房色は同じ紫白だったが,白

糸の割合に変化があったのかもしれない21。

新しい行司装束が正式にお披露目になったのは明治43年5月だが,それ

以前に木村庄之助の房色は決まっていたに違いない。国技館開館は明治42

年6月で,新しい行司装束の着用が明治43年5月だったので,その間に木

村庄之助の総紫が決まったことになる。新装束の決定がいつだったかがわ

かれば,それと同時期かそれ以前に階級色の総紫は決まったことになる。

そのように考えて,新装束がいつ決まったかを当時の新聞で調べることに

した。

階級色や装束と関係がありそうな記事のいくつかを次に示すことにす

る22。

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・ 『時事新報』の「行司服装の改正」(M43.1.12)

「角觝協会にては,今日の行司がほとんどみな散髪なるに,裃(かみしも)を

着するは何となく不調和なれば,その服装を改正せんとの議起こり,彼か是

かと相談の末,従前の素袍及び侍烏帽子を正装とし,常用としては折烏帽子,

直垂を用いることにほぼ決したるよし。但し直垂は袖を絞り,袴も口を絞る

ことにし,ただ顔触れ,土俵入りなどのときに限り,これを絞らず,また烏

帽子は行司の資格によりてその色を異にするはずなりと」

烏帽子の色が階級によって異なるという記述から,まだ装束の決定には

至っていないようだ。木村庄之助や他の行司の房色についても記述がない

ので,この時点で階級色が決まっていたかどうかはわからない。

・ 『毎夕新聞』の「大相撲初日の記 <行司の服装>」(M43.1.15)

「当年の1月より行司一般の服装を改正し,侍烏帽子に鎧下を着することと内

定したればこれまでの如く裃は当場所限り全廃せらるべし」

この記事で服装が鎧下直垂や侍烏帽子に内定したことがわかる。1月場

所は従来どおりの裃だが,5月場所から新しい装束となる。木村庄之助の

房色が総紫になったかどうかはまだわからない。

・ 『やまと新聞』の「大相撲春場所 <協会の注意>」(M43.1.15)

「両横綱土俵入りを務る行司は当場所より風折烏帽子に素袍大紋をつけ,すべ

て本式なりしは嬉しかりし(後略)」

横綱土俵入りで風折烏帽子に素袍大紋を着用したのは,1月場所で終

わっている。5月場所からは,横綱土俵入りでも侍烏帽子に直垂装束だっ

た。この時点では,横綱土俵入りの装束と常用装束の区別を認めている。

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・ 『東京朝日新聞』の「行司の服制」(M43.1.21)

「行司の服装は横綱土俵入りを引く外は裃着用にて勤めたるが,土俵上の威厳

を保有するは古式に則るほうが宜しとの協定にて来たる5月場所より足袋以

上の行司はすべて鎧下直垂に侍烏帽子を着して勤むることとせり」

この記事でわかるように,新装束は5月場所から使用することが決定し

ている。それを踏まえて,高田装束店に装束の注文をしたに違いない23。

この記事では階級色について何も触れていないが,木村庄之助の総紫もこ

の時点で決まっていたに違いない。なぜなら,階級色が決まらないと装束

の露紐や飾り紐などの色も決まらないからである。

新しい行司装束や階級色は1月下旬に決まり,本場所でのお披露目は5

月場所と決まった。行司の階級色がいつ決まったかを特定する場合,二つ

の見方があることになる。一つは,階級色は1月下旬に決まったとする見

方である。それに基づいて新装束は注文したはずだ。もう一つは,階級色

が決まったのは5月の本場所だとする見方である。1月下旬から5月の本

場所までは猶予期間ということになる。本稿では,木村庄之助の房色が准

紫から総紫に変わったのは,5月場所からとしておきたい。そのとき,多

くの新聞報道でも写真つきで大々的に取り上げられ,一般大衆の知るとこ

ろとなった。

・ 『時事新報』の「相撲界」(M43.2.9)

「<行司の装束> (前略)菊綴じと露紐との色合いは軍配の紐の色にて区別

する。まず立行司の庄之助,伊之助,庄三郎の三人は紫色にして紫白の行司

は白と紫,緋房の行司は赤,緋白の行司は赤と白,格足袋の行司は青白を用

いることとし,烏帽子はいずれも黒色に一定し,(中略)当時協会に居合わせ

たる行司等はこれを着して,行司の型を作りたるがすこぶる凛々しく見えた

り。されば右服装を実地に用いるは5月場所よりとのことなれば次場所の土

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俵には一つの美観を添ゆるなるべし」

この時点では,注文した装束が出来上がり,それを行司が試着している。

すでに行司の階級色は決まっていたとみなしてよい。立行司を一括りにし

て紫としているのは,紫糸と白糸の割合に関係なく,紫糸を強調している

からである。次の記事も同じことを述べている。

・ 『読売』の「角界雑俎」(M43.2.9)

「鎧下の紐の色を軍配の房の色と同じように,紫は立行司,緋は緋房行司,白

と緋混交(紅白:拙稿)は本足袋行司,萌黄に白の混交は格足袋行司という

ことにして段を分けている。一着の費用50円で昨日出来上がり協会楼上で庄

三郎,勘太夫,錦太夫が着初めしたが裃よりは軽く勤め心地もよいそうだが,

見たところも古風で堂々たるものだ」

2月9日に新しい装束を試着しているので,その後,装束について述べ

ていることは回顧的である。少なくとも階級色の決定とは関係ない。その

ような記事を二つほど,参考のために示すことにする。

・ 『時事新報』の行司の服装(M43.2.13)

「鎌倉時代の武士の鎧下の直垂を用いることにし,烏帽子は揉紙の折烏帽子を

用いることに改めました。これも5月の大場所から実行するつもりです」

・ 『東京朝日新聞』の「呼び出しの珍衣裳」(M43.2.17)

「角觝道にも古式復興の兆しありて既に先ごろ記せし如く東京角觝協会は行司

の服装を改めることに決し,烏帽子狩衣に鎧下の装束を用い,これにて土俵

の神聖を保ち観客をしてオヤオヤ万歳かと驚かしむる方針。先ずもって行司

連はその支度に取りかかり思い思いの…」

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新しい装束の着用は5月場所からだが,それに先立って5月31日の新聞

では写真付きでそれが報道されている24。どの記事でも立行司は紫となっ

ているが,具体的には木村庄之助は総紫,式守伊之助と木村庄三郎は真紫

白(つまり紫白)だった。紫には二種の区別があった。

・ 『都新聞』の「庄之助の跡目」(M43.4.29)

「現在,庄之助・伊之助の格式を論ずじれば,団扇の下紐において差異あり。

庄之助は紫,伊之助は紫白打交にて庄三郎と同様なりと」

この記事では,紫と紫白の違いが明確に示されている。木村庄之助が総

紫であるのは,式守伊之助や木村庄三郎の紫白と比較することでわかる。

明治42年6月以前の紫には白糸が1ないし3本混じっていた。つまり准紫

だった。当時の紫白では,准紫の場合より白糸がいくらか多めに混じって

いたに違いない。白糸の割合に差はあったが,准紫も紫白も分類上は紫白

だった。明治43年1月に准紫から総紫に変わったとき,総紫にするのは簡

単だったに違いない。白糸の1ないし3本を准紫から取り除くだけで済む

からである。

明治41年5月から43年5月までの新聞記事に准紫から総紫になったこと

を明確に記述してあるものがないか調べたが,そのような記事を見つける

ことはできなかった25。そのため,結果的に間接的資料から総紫になった

ことを推測している。本稿では木村庄之助の総紫は明治43年1月下旬に決

定し5月本場所から実施したと指摘したが,これが事実を正しく反映して

いるかどうかは今後の研究に俟つことにする26。

5.階級色の決定

明治43年5月に装束の飾り紐が階級色と一致するようになったが,その

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総紫房の出現(根間) 211

階級色で影響を受けたのは主として立行司である。それ以外の行司は従来

と何も変わっていない。その階級色は,次の新聞記事に記されている。

・ 『時事新報』の「相撲風俗�――行司」(M44.6.10)

「序ノ口から三段目までは一様に黒い房を用い,幕下は青,十両は青白,幕内

は緋白と緋,大関格は紫白,横綱格は紫というように分類されている。それ

から土俵上で草履を穿くことを許されるのは三役以上で,現在の行司では緋

房の誠道と紫白の進と紫房の庄之助,伊之助の二人である。」

庄之助と伊之助は紫になっているが,この紫には次のような変化があっ

た。

� 総紫: これは木村庄之助の房色である。これまでは准紫だったが,それが

総紫に変わった。16代木村庄之助は白糸が1本ないし3本くらい混じった准

紫だったが,白糸が何も混じらない総紫になったのである。

� 真紫白: これは式守伊之助と木村庄三郎の房色である。この真紫白は総紫

と区別しないときは,ともに紫として呼ばれる。つまり,紫には,厳密には,

総紫と真紫白があるが,それを厳密に区別しないときは,紫と呼んだりする。

従来の紫白と比べて,白糸の混じる割合が異なるのか,同じなのか,必ずし

も定かでない。従来の紫白と区別するときは,本稿では真紫白と呼んでいる。

なぜそう呼ぶかと言えば,半々紫白と混同しないためである。半々紫白にも

白糸がかなり混じっていて,それも紫白と呼ぶからである。

� 半々紫白: これは准立行司の房色だが,明治43年5月の時点でその房を許

された行司はいなかったはずだ。木村庄三郎は確かに第3席だが,第2席の

式守伊之助と同じように,真紫白だった。行司装束を報道した写真の説明で

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も木村庄三郎は紫となっている。

本稿では,木村庄三郎は第3席だが,第2席の式守伊之助と同様に真紫

白だったという立場だが,半々紫白だった可能性もまったく否定できない。

というのは,紫白には真紫白と半々紫白があるからである。昭和2年から

昭和34年にも半々紫白があったが,式守伊之助と木村玉之助はともに紫白

として扱われることが普通だった。実際には,式守伊之助は真紫白であり,

木村玉之助は半々紫白だった。9代式守伊之助と6代木村庄三郎にも同じ

ことが当てはまるかもしれない。本稿ではそのような可能性があることを

認めながらも,6代木村庄三郎と9代式守伊之助は同じ真紫白だったとし

ておきたい。その大きな根拠は当時の新聞で両行司とも紫として扱われて

いるからである。

明治43年5月以降の立行司について少し見ていくことにする。たとえば,

木村進は明治44年2月に紫白になっている(『都新聞』(M44.2.22))。こ

の紫白は,厳密には,半々紫白である。木村庄之助と式守伊之助は真の立

行司なので,二人とも紫である。しかし,木村進は准立行司なので,紫白

(厳密には半々紫白)である。

第3席の准立行司は紫白として扱うのが普通である。准立行司が式守伊

之助になると,紫となる。本稿では准立行司の紫白を半々紫白と呼び,式

守伊之助の紫白を真紫白と呼んでいる。この半々紫白を明確に使用した最

初の行司は,木村進である。その後に木村誠道,木村朝之助と続く。紫と

紫白にそれぞれ二つの異種があることを知らないと,紫や紫白を許された

という新聞記事を見たとき,どの紫や紫白なのかを見分けにくい場合があ

る27。たとえば木村進は明治44年2月に紫白が許され,また明治45年5月

に式守伊之助になったときも紫白を許されている。この二つの紫白は,実

は,別々の房色である。最初の紫白は半々紫白だが,2番目の紫白は真紫

白である。

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総紫房の出現(根間) 213

6.免許状の文面

明治43年5月以前に紫白から准紫に変わったとき,どのような方法で房

色が許されていたのか定かでない。朱から紫白に変わったとき,免許状に

は「紫白打交紐」といった表現があった。たとえば,16代木村庄之助が明

治31年1月に紫白を許されたとき,その免許状では「紫白打交紐」といっ

た表現になっている。

・ 『東京日日新聞』の「明治相撲史――木村庄之助の一代」(M45.1.15)

「 免許状

団扇紐紫白打交熨斗目麻上下令免許畢以来相可申也仍而免許状件如

本朝相撲司御行司 吉田追風 落款

明治31年4月11日

第16代木村庄之助とのへ」

この免許状の日付は明治31年4月11日になっているが,紫白は1月本場

所にはすでに使用していた(『都新聞』の「式守家を相続す」(M43.4.29))。

ところが,准紫を許されたとき,どのように許されたのか,まったくわか

らないのである。たとえば,16代木村庄之助は明治32年5月,6代木村瀬

平は明治34年4月,それぞれ紫白から准紫に変わっている28。免許状が出

ているなら29,それには准紫のことをどのように表現していたのだろうか。

准紫も紫白と同様に,紫白打交紐である。准紫を許した場合,紫白を許し

た免許状と同じように,紫白打交紐と表現するわけにはいかない。何らか

の区別をしなければならない。それがどのように免許状では区別されてい

たのか,まったくわからないのである。

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214 専修人文論集101号

明治43年5月に階級色が決まったとき,従来の房色と違ったのは立行司

だけである。木村庄之助は准紫から総紫になった。式守伊之助と木村庄三

郎は紫白から真紫白になった。この房色の違いをどのように変えたのかも

不明である。裏付けは何もないが,3名だけの立行司だし,房色を大きく

変えたわけでもないので,免許状以外の方式で伝達したかもしれない。協

会は吉田司家と協議し,それを行司会に通告したかもしれない。それは文

書によるものだったのかもしれないし,口頭で伝えたのかもしれない。い

ずれの方式を取ったのかは,まだ資料で確認できていない30。

明治43年5月以降であれば,階級と房色が一致するようになっているの

で,階級が変われば,それに応じて免許状の文面も違ったいたはずだ。つ

まり,木村庄之助なら総紫であり,式守伊之助なら紫白とわかる表現が用

いられているに違いない31。

7.今後の課題

准紫が確実に確認できるのは明治35年の三木・山田編『相撲大観』(M

35)である。それには16代木村庄之助と6代木村瀬平の軍配房に白糸が

1,2本混じっていると述べられている。しかし,その後,准紫の存在を

明確に記述してある文献は見当たらない。本稿では,吉田追風が『東京朝

日新聞』の「行司木村家と式守家」(M41.5.19)で語ったことを根拠にし,

少なくとも明治41年5月当時には木村庄之助の房色は准紫だったと解釈し

ている。これが正しいかどうかは今後吟味する必要がある。この解釈が間

違っているなら,明治41年当時,16代木村庄之助の房色は准紫でなかった

かもしれない。もしかすると,総紫は明治36年あたりに現れたのかもしれ

ない。そうなると,本稿で論じてきたことはかなり間違っていることにな

る。

明治43年5月の行司装束改正のときに,行司の階級色と鎧下直垂の露紐

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総紫房の出現(根間) 215

や飾り紐などが一致するようになったが,階級色は装束を注文するときに

はすでに決まっていたはずである。注文した装束の試着が2月だったこと

から,その装束が内定したのは1月であり,階級色は1月に決まったと解

釈している。装束のお披露目は5月の本場所なので,もちろん,5月に階

級色が決まったとしてもよい。この解釈が正しいかどうかはやはり吟味す

る必要がある。明治43年1月以前に階級色はすでに決まっていたかもしれ

ないからである。

明治42年6月の国技館開館以降に准紫から総紫になったのならば,16代

木村庄之助はどのような手続きで房色を変更したのだろうか。また,9代

式守伊之助や6代木村庄三郎は紫白から真紫白へどのように変更したのだ

ろうか。本稿ではどのような手続きで房色の変更を行ったのかについて確

かなことを述べていないが,今後さらに研究が進めばもっと確かなことが

わかるかもしれない。

繰り返しになるが,本稿では少なくとも次の4つの点を前提にしている。

� 三木・山田編『相撲大観』(M35)にあるように,明治35年ご

ろの准紫房には白糸がわずかならも混じっていた。当時,総紫は

なかった。

� 『東京朝日新聞』の「行司木村家と式守家」(M41.5.19)で吉

田追風が語っている紫白打交紐には紫白房だけでなく准紫も含ま

れていた。

� 16代木村庄之助には明治31年1月には紫白房,明治32年5月に

は准紫がそれぞれ授与された。准紫の年月は必ずしも定かでない。

� 6代木村瀬平には明治32年3月には紫白房,明治34年4月には

准紫がそれぞれ授与された。准紫の年月は必ずしも定かでない。

もしこの前提が間違っているなら,総紫が明治43年5月から使用される

ようになったという本稿の結論は間違っていることになる。この前提だけ

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216 専修人文論集101号

でなく,結論が正しいかどうかも今後検討しなければならない。

【資料編】

資料� 房色の変更

本稿で言及した立行司がどのような紫房や紫白房をいつごろ授与された

か,参考までに記しておく。

� 15代木村庄之助

・ 朱から紫白(明治19年末か20年1月)。錦絵「華族会館角觝

之図」(M20.2)。

・ 紫白から准紫(明治25年かそれ以前)。『読売新聞』(M25.6.8)。

� 16代木村庄之助

・ 朱から紫白(明治31年1月)。『都新聞』(M43.4.29)。

・ 紫白から准紫(明治32年5月)。『報知新聞』(M32.5.18)。

・ 准紫から総紫(明治43年5月)。『毎夕新聞』(M43.1.15)/

『読売新聞』(M43.5.31<本場所実施>)。

� 6代木村瀬平

・ 朱から紫白(明治32年3月,本場所は5月)。『読売新聞』(M

32.3.16)。

・ 紫白から総紫(明治34年4月,本場所は5月)。『読売新聞』

(M34.4.8)。

� 9代式守伊之助

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総紫房の出現(根間) 217

・ 朱から紫白(明治37年5月)。『都新聞』(M37.5.29)。

・ 紫白から真紫白(明治43年5月)。『読売新聞』(M43.2.9)。

� 6代木村庄三郎

・ 朱から紫白(明治38年5月)。『時事新報』(M38.5.15)。

・ 紫白から真紫白(明治43年5月)。『毎夕新聞』(M43.1.15)

/『読売新聞』(M43.5.31<本場所実施>)。

・ 真紫白のまま(明治44年2月,本場所は5月)。『都新聞』(M

44.1.9)。

・ 真紫白から総紫(明治45年1月,本場所は5月)。『東京日日

新聞』(M45.1.9)。

� 木村進

・ 朱から半々紫白(明治44年2月,本場所は5月)。『東京日日

新聞』(M44.1.9)。

・ 半々紫白から真紫白(明治45年5月)。『東京日日新聞』(T

2.1.12)。

� 木村誠道

・ 朱から半々紫白(明治45年5月)。『都新聞』(T2,1.18)。

・ 半々紫白から真紫白(大正3年5月)。『東京日日新聞』(T

3.5.21)32。

� 木村朝之助

・ 朱から半々紫白(大正3年5月)。『やまと新聞』(T3.5.31)。

・ 半々紫白から総紫(大正11年1月)。『やまと新聞』(T11.1.6)。

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218 専修人文論集101号

ここで記載した行司については房色の変更やその年月を以前にも調べた

ことがあるが,調査が行き届かず,特定が難しい行司も何人かいた33。こ

こで示した資料を参考にすれば,かなり補足できる行司も何人かいる。こ

のことを指摘しておきたい。

資料� 明治36年5月の行司名鑑34

これは『東京朝日新聞』(M36.5.29)に掲載されている記事である。記

事では「房」が「総」,「与太夫」が「與太夫」となっている。他にも語句

を少し変えてあるものもある。正確さを期すのであれば,元の新聞記事を

参照すること。

・ 紫房・帯刀・土俵草履御免:木村庄之助,木村瀬平。

・ 朱房・帯刀・土俵草履御免:式守伊之助。

・ 朱房・三役格:木村庄三郎,木村庄太郎。

・ 紅白・幕内格:木村進,木村小市35,木村朝之助,木村藤太

郎,式守与太夫,式守勘太夫,木村宋四郎,木村大蔵,式守

錦太夫,式守錦之助。

・ 青白房・足袋・幕下十両格:木村角次郎,木村左門,木村吉

之助,木村庄吾,木村豊吉。

・ 幕下格・房色不定36:木村八郎,木村善太郎,木村鹿之助,

木村留吉。

・ 序の二段目格・同上:木村鶴之助,他13人。

・ 序の口格:式守敬蔵,他20人。

また,その所属せる年寄部屋の名を記せば,

・ 高砂部屋:木村庄之助,同小市,同朝之助。

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総紫房の出現(根間) 219

・ 友綱部屋:木村庄三郎,同大蔵。

・ 尾車部屋:木村林次郎,同角次郎。

・ 伊勢ノ海部屋:式守伊之助,同与太夫,同勘太夫,同錦太夫,

同錦之助。

・ 千賀ノ浦部屋:木村進,同吉之助。

・ 中立部屋:木村庄太郎。

・ 独立:木村瀬平,木村宋四郎。

また,行司中の若者頭というは37,

・ 木村進,木村宋四郎,木村大蔵の3名なりという。

明治36年5月時点の行司階級,房の色,所属部屋,行司監督などはこの

記事で正確に知ることができる。これを参考にすると,各行司の行司歴を

調べることも容易になる。非常に貴重な資料である。

また,『時事新報』の「行司の番付」(M38.1.22)にも十両格以上の行

司の階級や房色などが記載されている。昭和36年5月と比べると,階級の

変化が見られる行司も何人かいる。参考までにその行司のみを示す。

� 式守伊之助が朱房から紫房になっている38。

� 木村進と木村小市は紅白から朱になっている39。

� 木村角次郎と木村左門が青白から紅白になっている40。

式守伊之助は紫白であるが,木村庄之助と木村瀬平の准紫と同様に紫と

なっている。准紫と紫白は一括りにして紫とするのが普通だったからであ

る41。

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220 専修人文論集101号

1 紫房や紫白房は単に紫や紫白として表すこともある。色の後に房をつけなくても,

団扇の色であることが明確である。なお,紫糸の異種に関しては,たとえば拙著『大

相撲立行司の軍配と空位』(H29)の第1章「紫房の異種」でも詳しく扱っている。

2 本稿では扱わないが,他の階級色の場合も改めて免許状は出ていないはずだ。その

階級色は従来と変わりなかったからである。式守伊之助の紫白の場合,従来の白糸の

割合に変化があったかもしれない。

3 当時の新聞や相撲の本などでは准紫は単に紫として表してある。吉田司家の免許状

ではこの紫は「紫白打交紐」となっており,厳密には紫白である。紫白も紫として表

すこともある。たとえば,16代木村庄之助や6代木村瀬平は准紫の前は紫白だったが,

当時の新聞記事ではその紫白を紫として書いている。

4 15代木村庄之助が准紫を明治25年に使用していたことは確かだが,それ以前にも使

用していた可能性がある。それは『読売新聞』の「西の海の横綱と木村庄之助の紫紐」

(M25.6.8)でも確認できる。この記事では15代木村庄之助以前にも准紫が許された

とあるが,それが正しいのかどうかは不明である。

5 この紫白は准紫より下位の房色である。15代以前の木村庄之助の中には,たとえば

9代や13代木村庄之助のように,この紫白を許されたものもいる。准紫は15代木村庄

之助に初めて許されたとするのが普通の見方である。紫白も准紫も同じ紫白だが,白

糸の割合が異なることから別々の免許状が授与された可能性が高い。しかし,免許状

の文面がどのように異なっていたかは不明である。

6 16代木村庄之助と6代木村瀬平が紫白から准紫になったときは,免許状でその房色

は授与されている。16代木村庄之助は明治32年5月,6代木村瀬平は明治34年4月,

それぞれ准紫の免許状が授与されている。免許状では准紫ではなく,紫となっていた

はずだ。15代木村庄之助は明治25年当時,准紫を使用しているが,それは正式な免許

状で授与されたものではない。そのため,熊本興行では吉田司家に遠慮し,紫白を使

用している。その紫白は免許を受けていた。

7 臨時に許可する場合,特別に允許と呼ぶこともある。これは文書で許可したものか

もしれない。永続的な免許状ではないので,やはり一種の黙許である。

8 どの本でも「明治31年」となっているので,勘違いではなく,私が何か重大なこと

を見落としているかもしれない。それが何か,今のところ,わからない。

9 北川著『武士と相撲道』(M44)や枡岡・花岡著『相撲講本』(S10)にも准紫につ

いて述べられているが,それは15代木村庄之助の房色である。16代木村庄之助や6代

木村瀬平の准紫ではない。

10 記事全体は本稿の末尾に資料として示してある。当時の各行司の地位と房色が示さ

れており,房色を確認するのに大いに役立つ。

11 式守伊之助(9代)は明治37年5月に紫白を授与されている(『都新聞』(M37.5.29))。

明治36年当時はまだ朱だった。

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総紫房の出現(根間) 221

12 木村庄三郎(のちの10代式守伊之助,17代木村庄之助)は明治38年5月に紫白房を

授与されている(『時事新報』(M38.5.15)。時事新報では房色の記述はないが,他の

資料に式守伊之助の房色と同じだとあることから紫白と判断している。錦絵「(大砲)

横綱土俵入之図」(玉波画,露払い・大戸崎,太刀持ち・太刀山,発行者・松本平吉,

明治38年5月10日発行)では紫で描かれている。

13 明治38年10月に亡くなった(『読売新聞』(M38.10.11))。

14 木村進は明治45年(1912)に11代式守伊之助になった。明治43年6月の行司装束の

改革ではこの進が活躍したらしいが,どのような貢献をしたかはまだ調べていない。つ

『相撲画報』(T14.12)の「あつさんの事 附けたり庄之助物語」(pp.54―5) の中に

「この伊之助は,相撲の故実に明るく,今の行司の服装のとき,この進の案になった

ものであるが,土俵の上は下手であった」(p.55)とある。

15 木村小市は木村誠道に改名した。大正3年(1914)に12代式守伊之助になった。

16 木村朝之助は18代木村庄之助でになった。

17 木村瀬平は明治34年4月に「紫」を許されている(『読売新聞』の「木村瀬平以下

行司の名誉」(M34.4.8))が,免許状では「紫白紐」となっていたようだ(『時事新

報』の「故木村瀬平の経歴」(M38.2.6))。

18 国技館開館以降に行司装束の改正が話題になっているが,それについては風見著『相

撲,国技となる』の「品格ある身なりにする」(pp.119―32) が詳しい。

19 行司の階級は以前から房の色で表していた。房色が先にあり,装束の飾り紐などが

房色に一致するようになっただけである。すなわち,装束改正時には立行司の紫を細

分化したことになる。

20 幕下格以下の房色が明確に黒か青として決まったのも明治43年5月かもしれない。

黒色はそれ以前から使用されていたが,青は初めて出てきた房色だからである。明治

43年5月以前でも幕下格以下の房色は黒として決まっていたわけでなく,慣例として

たまたま黒色が使われていただけかもしれない。なぜなら,上位の房色以外ならどの

色でもよいという記述が見受けられるからである。

21 半々紫白が従来から階級色としてあったかどうかは不明である。43年5月以降の式

守伊之助の紫白とそれまでの紫白や半々紫白を区別するとき,本稿では前者を特別に

「真紫白」と呼んでいる。

22 ここで示した記事以外にもまだありそうな気がしたが,もっと他の新聞を調べる根

気がなくなった。探し求めていた装束の内定と装束の試着について述べてある記事が

見つかったので,ひと安心した。

23 高田装束店に新装束を注文したことがわかったのは軍配房の長さや房糸の本数につ

いて研究していた2005年頃である。社長が注文を受けた当時の古いノートを見せなが

ら,注文した時期についても教えてくれたが,私は当時装束にあまり関心がなく,注

文の時期についても記録を取らなかった。北出(監修)『大相撲への招待』(講談社,

H4,p.95)に明治43年日付の行司装束寸法注文書のコピーが掲載されている。そこ

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222 専修人文論集101号

には月名も記されているが,不鮮明である。1月か2月のようだ。今年(H28)10月

に房の色や注文時期について確認を取るため,再び高田装束店を訪ねたところ,8月

に破産した旨の張り紙が張ってあり,店は閉じられていた。もう少し早めに訪問して

いたら,装束の注文時期と木村庄之助の房色の裏づけができたはずだが,残念な結果

になってしまった。

24 明治43年5月場所の初日は6月3日に順延されている。

25 明治42年6月から43年5月までの新聞記事を全部調べたわけではないし,調べた新

聞でも見落としがないとも限らないので,求めている期日を述べてある記事が見つか

るかもしれない。それは否定できない。

26 今後,木村庄之助の総紫が決まった期日を記した記事が見つかれば,本稿の指摘し

た期日が正しいかどうかは即座に判断できる。

27 新聞や本では総紫と真紫白を単に紫として,また真紫白と半々紫白を単に紫白とし

て表すことがあるが,それは括り方の基準が異なるからである。特に半々紫白と真紫

白を区別する記述はほとんどない。

28 この年月が正しいかどうかは必ずしも明白でない。これに関しては,たとえば拙著

『大相撲立行司の軍配と空位』の第1章「紫房の異種」でも扱っている。

29 准紫は免許状がなくても使用していた形跡がある。例えば,15代木村庄之助は明治

25年,熊本以外の興行で准紫を使用しているが,免許なしで使用している(『読売新

聞』の「西の海の横綱と木村庄之助の紫紐」(M25.6.8))。この行司は明治25年以降

も免許なしで准紫を使用している。生存中,准紫の免許状が授与されたかどうかは不

明である。

30 ここで述べていることは明治43年5月の階級色のことである。それ以降の階級色に

ついては階級に応じてその房を許す免許状が出ているはずだ。たとえば,明治44年2

月に木村進は朱から紫白に変わっているが,その紫白を許す免許状が出ているはずだ。

その免許状を直接見たことがないが,新聞記事に進が紫白房を許されたとあることか

ら(『都新聞』(M44.2.22)),免許状には房色が明確に記されているに違いない。明

確でない点は,免許状に半々紫白が記されていたかどうかである。それが明確でなけ

れば,明治44年5月に式守伊之助に昇格したときの紫白と明確に区別できなくなる。

31 半々紫白の許可を免許状でどのように表現したかははっきりしない。その房色は式

守伊之助の紫白と異なるので,房色の違いがわかるような表現になっていなければな

らない。

32 大正3年夏場所番付では木村誠道の行司名である。大正4年春場所番付に式守伊之

助として記載された。つまり,伊之助を襲名する前にすでに真紫白になっている。

33 拙著『大相撲行司の伝統と変化』(H22)の第9章「明治30年以降の番付と房の色」

や『大相撲行司の軍配房と土俵』(H24)の第8章「大正時代の番付と房の色」には,

房の色がいつ変わったかを特定できない行司がいたが,この資料を参考にすると特定

できる行司も何人かいる。

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総紫房の出現(根間) 223

34 この新聞記事は大相撲談話会の相沢亮さんに教えてもらった。改めて感謝を申し上

げる。

35 木村進と木村小市は明治34年5月に紅白から朱にかわっているはずだ(『読売新聞』

の「相撲のいろいろ<進,小市の緋房>」(M34.5.22))。なぜ両行司とも明治36年5

月時点で紅白として記載されているかは不明である。

36 幕下格以下の房色が「不定」になっているが,これと同じことが藤島著『力士時代

の思い出』(国民体力協会,S16)にも見られる。すなわち,「幕下以下は何色を使用

してもいいが,前述した房の色は留め色と言って使用することを禁止されている」

(p.87)とある。これが真実かもしれないが,黒色は一般的に使用されていた。たと

えば,山田著『相撲大全』(M34,p.35)や杉浦著『相撲鑑』(M44,p.34)では前相

撲から幕下までは黒糸を使用することが述べられている。明治43年5月31日の新聞で

も幕下格以下は黒(または青)となっている。幕下格以下の房色が黒または青として

規定されたのは昭和30年である。

37 この「若者頭」は,現在の「行司監督」に相当するようだ。

38 式守伊之助は明治37年5月に紫白房になった(『都新聞』(M37.5.29))。

39 木村進と木村小市は明治34年5月に赤になった(『読売新聞』の「相撲のいろいろ

<進,小市の緋房>」(M34.5.22))。

40 木村角次郎と木村左門は明治37年1月に紅白になった(『毎日新聞』(M36.11.5))。

41 明治44年7月1日付の『中央新聞』にも当時の十両格以上の行司名が掲載されてい

る。木村誠道は立行司格となっていることから,半々紫白房だったようだ。

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