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Hitotsubashi University Repository Title � : Author(s) �, Citation �, 97(4): 459-478 Issue Date 1987-04-01 Type Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/12715 Right

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Hitotsubashi University Repository

Title 経済地理学と経済立地論 : 一橋の伝統と今日的課題

Author(s) 河野, 敏明

Citation 一橋論叢, 97(4): 459-478

Issue Date 1987-04-01

Type Departmental Bulletin Paper

Text Version publisher

URL http://doi.org/10.15057/12715

Right

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経済地理学と経済立地論

    -一橘の伝統と今日的課題1

  、

河  野

敏  明

(17)経済地理学と経済立地諭

商業地理学とマーカンチリズム

 経済地理学や立地論にかぎらず、どの学問でも、一つ

の学間が今日的な婆や学問的体系を備えるまでには、そ

の背後に幾多の変遷の歴史があり、それぞれの時代の現

実問魑を解決すべく取組んだ先学の努カの足跡が挙説史

         ^1〕

や伝統として残っている。

 経済地理学、あるいはその理論地理学として位置づけ

られる経済立地論についても、以上で述べた学間発展の

歴史と伝統の上に今日の婆と体系が形成されてきたとい

えよう。たとえぱ経済地理学の場合について簡単にその

発展史を振返ってみると、地理学の源流は古くギリシャ

             ^2〕

時代までさかのぼることができる。しかし、現代の経済

地理挙の先史といえるのは十七~八世紀の重商主義の

時代に出現した商業地理挙(8昌冒曾o邑o目8oq量吾さ

=陣目o9蜆oqoo的轟o巨<)といってよい。

 商業地理学は、コロンブス(ρユ黒o昌害OO;昌σ冨一

宝害~~冨8)の新大陸発見(一四九二年)以来、ヨー

ロヅバ諸国の海外進出と外国貿易を重視する、いわゆる

マーカンチリズム(昌彗s鼻…蜆昌)の時代的背景の下で

生れた。。新大陸やアジア・アフリカなどへの植民地開発

と開連して、これらの地域の資源や物産についての情

報.知識が必要となってきた時代的要講に答える形で、

各地の地理的情報と産業・経済、物産などの知識を一つ

459

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一橋論叢 第9ア巻 第4号 (18)

の体系的知識として集成しようとするのが商業地理学で

あった。

 このような各国の産業・経済、自然資源、物産などの

商業地理学的な知識は、マーカンチリズムの時代以前の

中世にももちろん収集され、商業掌書として残されてい

                     ^3)

る。たとえぱ、クラウス(≧9ω穴墨豪)によれぱ、イ

タリアのペゴロッチ(}轟目o窃oo困葭δ自8-、ooqo-gま)

の商業学書(二三二三年)やウヅツアノ(>鼻o邑o急

⊂N墨昌)の書物(一四二四年)の中にも商業地理学的

な知識が記されているという。しかし、商業地理学的知

識がより強く必要となってくるのは近世においてであっ

た。 

この時代の商業地理書の中からいくつかを拾ってみる

と、フランスのサバリー(』畠■』閏ρ烏叩ω曽く彗<)が一六

七五年にご言言辻恵電きミ(「完全な商人」)をあら

わし、また一七二三年には「商業百科事典」を編集して

いる。ドイツではマールペルガー(勺閏巨旨8σ9彗、

潟晶胃)が一七一七年に「博学の商人」をあらわし、ル

ドヴィツチ(O。ρ■邑〇三8は一七四一~四三年に

」ぎき§ざ乱ミ宍s亀§箒ミ㎞、§募§ミ~暗雷計亀書sミ暑}

卜§註§(「商人大学または完全な商人百科事典」)五巻

を出版している。

 商業地理学、あるいは商人地理学という用語も以上

の書物の中に現れてくる。たとえば、ルドヴィツチは

上記書の中で商人地理学(穴彗ぎ彗豪oq8咲、岩巨o邑。、

宍彗ぎ葭目目ぎま08窄{巨o)という用語を用い、この

「商業に応用された地理学」は、「それぞれの国、とくに

それぞれの場所において、商業の:・…いとなまれるすべ

ての自然の賜物およぴすべての人為の所産を、その分量、

良否、その他の性質の点から、さらにまた海洋、湖沼、

可航河川、港湾、商業、集散都市を、商人が知ることを

必要とし、かつ有用とするすべてのこととともに綿密に.

                  (4)

指摘しかつ記述する地理学」と定義している。

 また、商業地理学については、ビュッシュ (-、Ω、

}旨争)が一七七八年の地理学講義計画の中でOO昌.

                    ^5〕

昌睾o晶8o冒『岩雲oという用語を使っているという。その

内容についてはここでは明らかにしえないが、商人地理

学であれ、商業地理学であれ、外国貿易や商業活動で必

要とされる実用的な地理学的知識が百科全書的に体系づ

けられたものであった。このような商業地理学の百科全

460

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(19)経済地理学と経済立地論

書的性格は・一八八九年に初版を出してより一世紀もの

長期にわたって改訂版(一九七五年十九版)を出し続け

ているチサム(Ω.Ω■O巨ω巨O-昌)の串昌ミ匙ぎo討県S§-

§軸§ミ零轟、喜ミ(商業地理学ハンドブヅク)の中に生

           ^6〕

きつづけているといえよう。

 このように、商業地理学は、マーカンチリズムの時代

的要請を受けて、貿易や植民政策を支える知識体系とし

て、実学的性格の強い学問として出発した。このような

性格は、商業系高等教育の教科の中へも導入され、本学

における経済地理学講座の早期の開設とも密接な関連を

もつことは後で述べる通りである。

 いずれにしても、経済地理学の前身は商業地理学、あ

るいは商人地理学であり、以上で概略みたように、外国

貿易や世界資本主義の進展に伴なう植民地分割などとの

関連で、事の善悪は別として、マーカンチリズムを支え

る知識体系の一翼を担っていたといえよう。

(1) 国松久弥『経済地理学説史』古今書院、

 参照。

(2) 同書、第一節、二頁。

(3)≧o尿宍『彗9ミ毒§“雨ぎミ9寒ミ軸

昭和五四年、

軋恥、 虫SS、雨芽1

 ミs~ミ“ミ吻§慧銘雨翁、sミ冊一5o仰ωω.㎞~ζ1

(4) き§一㎝・S・ただし、引用は、国松、前掲書、三頁に

 よる。

(5) 同書、同買。

(6)Ω.ρ9肇〇一貝O募守oぎ、㎞¥§き8}県o§§§ミ

雫泰、意ミ一■o自oop■o■岬昌寧目一饒冨庁oα1Hoooo〇一目ぎg$目艘

 Oρ.HON蜆一

一一経済地理学の擾頭とその背景

 商業地理学がマーカンチリズムを反映した地理学体系

であるとすれば、経済地理学(8昌o昌{ooq8oq『岩ブさ

ミまmo罫茅o目8o目轟吾一〇)は、その後の資本主義の発展

に伴なう諸矛盾が国内間題、あるいは国際閲題として複

雑に顕在化する、いわぱ資本主義燗熟期(独占資本主義

段階)に対応する地理学体系ということができる。そし

て、この時代には、一国民経済内部では都市化・工業化

の進展、人口移動、あるいはそれらに伴なう地域経済構

造の変化と地域間の不均等発展が目立つようになり、そ

の解決策を示す地理学理論が社会的に要請されてきた。

 このような時代的背景と同時に、従来の商業地理学の

学問体系、たとえぱ百科全書的な物産や商業流通の知識

164

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一橋論叢 第97巻 第4号 (20)

の羅列的記述を主内容とする商業地理学に不満を持ち、

現実に生起しつつある種々の地理的現象を一定の法則性

の枠組で把握しうる挙問体系の確立を目指す動きが十九

世紀後半に現れてくる。この動きを代表する論文が一

八八二年にドイツの商業地理学者のゲヅツ(毫;9昌

00=冨)によって発表された「経済地理学(商業地理学)

の課題」(b膏」鳶き軸亀ミニ§ミ竃“亀}§§Ω§雫怠-

                     ↑)

ミ雨、(茗串§き“素§雫魯ミ雨.、))という論文であった。

 このゲッツの記念碑的論文の特徴は、今日一般的に使

用されている経済地理学という用語をはじめて使用した

ことと同時に、従来の商業地理学に欠けている因果関係

的法則性を解明する科学としての地理学を確立すべきこ

とを主張したことである。彼は、イギリスなどにはおく

れをとりながらも、ようやく勃興しつつあった母国ドイ

ツの国氏経済を念頭に置きながら、自然環境と人間活動

との因果関係として認識される経済地理的諸現象を環境

              ^2)

理論に基づいて体系化しようとした。

 以上のような意味で、経済地理学はゲッツの上記論文

            (3)

に始まるとするのが定説である。しかし、ゲヅツ以前に

も、はじめに述べたような商業地理学と呼ばれる経済地

理挙の前史があり、その成果と蓄積の上に新しい時代の

要請に即した経済地理学が構築されることになったと見

るのが妥当であろう。

 その後、ゲヅツの自然環境と人間活動の関係を究明す

るという経済地理学の課題の認識と、そのどちらを基本

的なものと考えるかによって、一方では環境要因にウエ

イトを置く環境決定論(gく庁昌昌彗邑急け雪邑目げ昌)

への道を開くことになる。この環境決定論的な地理学者

としては、フンボルト(≧婁彗宗『く昌串自昌σo-津)、

リヅター(O胃-内岸け宵)、ラッツェル(句ユoOユoげ宛等-

星)などの名があげられるが、十九世紀の終り頃まで

はこのような環境決定論が受け入れられていた。その背

景にはダーウィン(9彗一鶉∪胃色目)の進化論の影響

         ?〕

もあったと見られている。

 しかし、二〇世紀に入ってくると、環境が一方的に人

間活動を規定するという環境決定論が批判され、ゲヅツ

の理論を発展させた交互作用理論(ミ邑-邑三Hぎ轟甲

9①oユo)がハイデリヅヒ(}量冒}oδ宰巨一)、ドーフ

ェ(宍胃-Uoく①)、ザヅバー(宍胃-ωρ勺勺亀)、ディート

リヅヒペ田昌■oU庁富ざ巨)、リュートゲンス(宛巨qo箒

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(21) 経済地理挙と経済立地論

               ^5)

■幕σqo舅)などにより展開されてくる。

 この交互作用論の出現する世界経済的背最を考えてみ

ると、第一次世界大戦がドイツと英、仏、米等連合国と

の間に闘われたのが一九一四~一八年であり、一九一七

年にはロシア革命が起きている。その背後に唯物弁証法

的思考や史観が一般化してきた状況もあった。このよう

な思想的状況の下で、地理学理論においても唯物弁証法

ないし史観に基づく理論が出現したとしても不思議では

なかったのである。

 この交互作用論をマルクス主義的立場から地理的唯物

論として展開したのがウイヅトフ才ーゲルの「地政学、

             ^6)

地理的唯物論およびマルクス主義」という論文であった。

また、後で詳しくふれるように、ディートリヅヒの交互

作用論をわが国へ紹介移植されながら、ウィヅトフォー

ゲルの弁証法的方法を積極的に評価摂取して独自の経済

地理学を構築されたのが佐藤弘教授の『経済地理学概

論』(一九三〇年)であった。

 佐藤教授は、本学の前身である東京商科大学に経済地

理学講座が昭和五年(一九三〇年)に開設されて以来の

講座の担当者であり、その業綾については後でふれるこ

とにして、ウイヅトフォーゲルの地政学(Ω8勺o;寿)

について補足すると、彼の前記論文の意義は二つあると

   ^フ〕

されている。その一つは前述したように経済地理学の交

互作用論にマルクスの労働過程論を導入し、それを「弁

証法的・歴史動態論として発展させた」ことであり、第

二はヒットラー(>φo篶雪匡雪)のナチズムの理論的支

柱とみられた地政学に対してマルクス主義的立場からの

批判を行なったことである。ちなみに、この地政学の原

典といわれるマヅキンダーの書物は、ナチズムの世界征

服の野望にヒントを与えたということでくしくも『世界

                       ^8〕

を変えた本』の一冊に数えられることになったのである。

 (1) 青木外志夫・河野敏明「経済地理学」(一橘犬学学園

  史編築委員会繍=橋大学挙問史』、昭和六一年三月、四

  八八~九員。国松.前掲書、第一章第二節、一〇~一八

 頁)。

 (2)国松、同書、第一章、一〇~三九頁。

 (3) ただし、ゲソツ以前に経済地理学という呼称が既に使

  われていたという説もある。民宰目彗自ミ即管員卜§き§昏

 ~ミΩ§雫恩ミ“N監昌o>自夢帥〇二89ω』㊤ご>.肉『些畠一

 ミ}ω・遣一>・>・o竈oq實一苫く一射冨色彗Ω8o司冨冨k一吻o-

 §、9翁、喜ミきsミ、き§軸ミ§、H§貧>目邑o竃

 o8o口『ρ勺巨墨-ωoggさ崔s一勺.ζ.

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一橋論叢 第97巻 第4号 (22)

(4)U婁オ9晶9}二乏・9暮具巴O箒昌区員内こ・

 言-旨黒昌(&-)一『ぎb}ミ§昌ミ県き§§9轟、尋ミ・

 N昌匝①{1一soo9勺ラごH~Hωω・

(5) 青木・河野、前掲論文、四八九頁、国松、前掲書、一

 四~六頁。

(6)冒ユ>-書毒嚢ポ08勺。;河。司8晒畠号邑實峯器.

 『貯-望一旨蜆自目o呂凹『辻帆--旨9q曽~ミ軋雨書b亀ミミミ良雨}ミ宮ミ}.

 吻§ミ由一ω』四HO~O・

(7) 青木・河野、前掲論文、四九〇頁。

(8)雰耳二】冒彗yま黒㎞§ミ9§蔓§書§

 ↓ま乞oミ>目邑o彗ごσ轟『}L温ひ・この書物の中でダウ

 ンズは、マッキンダー(ωマ串巴{o邑-1旨彗匡邑o『)の論

 文..↓訂Ω8oq量勺巨8-虫くgo{}…黒o{、。(↓序H{o這一

 〇8o司・岩巨8一ωoq血{峯8片一轟巨■昌ρ昌一』竃畠{冒一

 ε宝)が果した歴史的役割についてふれている。(きミ一

 勺o.Hs~Hく.)そして、この論文とそれを敷術したb舳.

 §oミミざミ§釘ss軋b冊§oミ昌ミがナチスの宍葭二雷顯自餉.

 巨O{冒によって利用され、悪名高いゲオポリテイークに理

 論的基礎を提供した経緯を述ぺている。

三 東京高等商業学校と商業地理

 ところで、小稿の目的は、本学における経済地理学と

経済立地論の学問的蓄積と伝統を回顧し、現在、我々が

直面している現実の諸問魑を明らかにしながら、斯学研

究の今日的課題と展望を明らかにすることである。

 本論に先だって、経済地理学の前史ともいえるマーカ

ンテイリズムの商業地理挙と、それに続く十九世紀後半

から二十世紀初頭における経済地理学の勃興と特色につ

いて簡単にふれたのは、小稿の目的にそって、本学にお

ける経済地理学の輝しい伝統を、一方でその学説史的パ

ースペクティブにおいて位置づけするとともに、他方で

斯学の発達が現実の経済問題と強く結びつき、すぐれて

実学的性格の強い学問であるこを強調しておきたかった

からである。

 本学における経済地理挙と経済立地論の挙問史も、本

挙の成立と発展の歴史的性樒を反映して、やはり現実間

題を解決する指針となるべき実学的要素を濃厚に保持し、

そのような雰囲気の中で輝しい伝統が培われ、一世紀に

                ^1)

及ぷ歴史を築くことになったのである。

 そこで、まず本学そのものの成立と発展の経緯を簡単

にみておくと、その前身は明治八年(一八七五年)の商

法講習所が銀座・尾張町に開設されたのに始まる。その

後、この商法講習所は明治一七年(一八八囚年)に東京

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(23) 経済地理学と経済立地論

商業学校となり、これは明治二〇年(一八八七年)には

高等商業挙校と改称された。次いで、明治三五年(一九

〇二年)には東京高等商業学校、大正九年(一九二〇年)

には東京商科大学へ昇樒し、一時東京産業大学と犬平洋

戦争中(一九四四~四七年)呼ぱれた時期があったが、

戦後の昭和二四年(一九四九年)には一橋大学と名称を

変えて今日に及んでいる。

 この間の経済地理学の発展については、詳しくは一橋

犬学学園史編集委員会編『一橋大学学問史』(一九八六

年)を参照してほしいが、その中から本稿の目的と密接

に関連する部分を以下で要点を圧縮して紹介しておくこ

   ^2)

とにしたい。

 まず、商法講習所発足から東京高等商業学校時代につ

いてみると、それはさきにみた商業地理学に対応する

「前史」の時期といえよう。そこでは、商業系学校とし

てスタートしたことにより、早くから商業地理が教科目

として設けられている。すなわち、明治十七年に発足し

た東京外国語学校所属高等商業学校(四年制)の第二、

三学年に商業地理が現れている。そして、この科目は、

学制の変革やその他の変遷にもかかわらず、一貫して商

業系高等教育の基礎教科としての地位を保ってきたので

ある。

 このような商業地理の地位は、前に述べたように、マ

ーカンチリズムを支える実学的教科の一つとして、十六

世紀以来欧米の商業系学校で商業・貿易に従事する商人

の子弟を教育する制度をわが国に導入したことによると

いえよう。明治初期にわが国政府がとった欧米列強の政

治、経済、文化、教育などの諸制度の移植政策の一環と

して、商業高等教育の面でも欧米の教育制度が殆んどそ

のまま採用されたということであろう。とくに、時あた

かも殖産興業、富国強兵がスローガンとして掲げられ、

経済発展や貿易振興が叫ばれた時期であり、このような

目的に早急に対応するには欧米の諸制度をそのまま導入

することが早道であったからである。

 この欧米諸制度の直輸入で大きな役割を果すのが外人

教師である。その数は明治五~一〇年頃では全分野で五

〇〇名に達し、その後幾分減少して明治一〇年代後半ま

では数百名を数えている。このうち、学校教師は一〇〇

         ^3)

~一五〇名に達している。

 商業地理についても、この教科が明治二十年に東京商

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一橋諭叢 第97巻 第4号(24)

業学校本科に設置され、その最初の講義を担当したのが

ペルギー人のマリシャル(>『艘…雪胃尿g巴)であった。

彼はアントワープ高等商業学校の出身であり、二二年ま

で講義を担当したが、その講義内容.を「教授要領」(明

治二〇年)でみると、「商業地理本科第一年各国ノ

位置、形勢、気侯、人口、風俗、民情、制度、物産、産

業、運輸、交通、貿易、国カノ盛衰、社会ノ好尚、輸出

入ノ多寡及ビ大市場ノ景況等二関スル事項ノ要領ヲ撮ミ

之二関スル諸書二拠リ尚各国統計表官私ノ報告書等ヲ参

考シテ之ヲ講説ス」となっている。

 その後、外人教師としては同じくベルギー人でアント

ワiプ高等商業学校出身のブロックホイス(向ρ≦胃q

旨器暑里oo彗ξω)が明治二八~三七年の間マリシャ

ルの後任として招聰されている。商業地理の担当者は、

マリシャルの後を東京商業学校出身(本学前身)の岡野

態太郎氏が継ぎ(明治二三~二四年)、明治二五年以降

は奈佐忠行教授(地質挙専攻理学士)がブロックホイス

と共に昭和三年まで担当された。その内容は前記マリシ

ャルのものと類同の実学的性権の強いもσであづたとい

えよう。

 このように、本学の前身である東京高等商業挙校時代

における地理教育は、名実ともに商業地理、あるいは商

工地理であり、さきにみたマーカンチリズム的色彩を色

濃く残したものであった。しかし、この時期における世

界の地理学研究の動向は、世界資本主義の性楮の変化に

対応した形で、重商主義的残澤を払拭しつつ商業地理か

ら経済地理へと急速に脱皮を行っていたということであ

る。この点についてはさきにゲッツの論文を構矢とする

十九世紀八○年代からの動きが、今世紀の初めから三〇

年代にかけて大きく撞頭したことについて簡単に述べた

通りである。     .

 本学は、このような世界史的背景の中で、大正九年

(一九二〇年)三月に東京商科大学として新しい時代の

スタートを切り、その直後の大正十一年には本学におけ

る経済地理学の礎石を築き、大きく発展させられた佐藤

弘氏が着任されてくる。

(1) 一橋大挙挙園史編集委員会編=橋犬学学問史』所収、

 青木・河野、前掲論文「緩済地理学」(四八五~五〇七頁)

 参照。                     .

(2) 以下の本学前身の変遷と地理学教科の内容は、専ら青

664

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(25) 経済地理学と経済立地論

 木・河野、前掲論文、によっている。

(3) 吉囲茂『日本を決定した百年』日経新聞社、昭和四二年。

   四 経済地理学講座の開設と発展

      -佐藤弘教授-

 わが国における経済地理学の草創期を語るのに、本学

における経済地理学講座の存在と、その創設時からの担

当者として長期にわたって学会をリードしてこられた佐

藤弘教授の功績を抜きにしては何も語ることはできない

  ^1〕

であろう。本学の経済地理学講座は、後で詳しくふれる

ように昭和五年に開設されたが、それはわが国における

最も古い講座であり、その歴史はわが国の経済地理学の

発展史といっても過言ではないからである。

 佐藤弘氏は、大正十一年の四月、東京帝国大挙理学部

地理単科の第一回卒業生であり、卒業と同時に商科大学

予科講師に就任され、翌十二年に教授に昇任、予科の地

理を担当されている。また、後には奈佐教授のあとを受

けて商学専門部の商業地理を担当されている。しかし、

佐藤教授の功讃との関連で見逃せないことは、大正十五

年(一九二六年)二月より昭和三年(一九二八年)まで

の二年間にわたるドイツ留学といえよう。前述したよう

に、商業地理学から経済地理学へのドイツ地理学会の大

変動期に留挙された先生の体験は、その後経済地理学を

はじめとして、政治地理学、文化地理学、築落地理学な

どの幅広い分野にわたっての関心となり、当時のドイツ

学会の理論的・方法論的成果を積極的に摂取されながら、

それをわが国に導入移植し、独自の経済地理学体系を構

築されることとなったのである。         。

 この学究活動の拠点となったのが昭和五年(一九三〇

年)に本学(商科大学本科)に開設された経済地理学講

座であった。また、後述するよプな主著をはじめ多くの

研究成果を公刊して学会をリードされるとともに、経済

地理学会の創立にも尽カされ、昭和二九年から初代会長

として学会の発展にも貢献された。そして、経済地理学

会長としての学会への貢献は、教授が逝去される昭和三

七年十二月まで続くのである。佐藤教授が本学に在職さ

れた期間は大正十一年(一九二二年)から昭和三六年

(一九六一年)の停年退官までの三〇年間である。

 ところで、佐藤教授がドイツに留学された一九二〇年

                          7

代の後半の時代的特徴をみると、それは、はじめに述べ 郷

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一橋論叢 第97巻 第4号 (26)

たように、商業地理学がその歴史的使命を果たし、新し

い時代のより複雑な矛盾が各国で表面化した時代であっ

た。それは戦争や革命、あるいはその他の様々な形で生

起し、このような杜会的・経済的間題に地理学もこたえ

ることが要請されてきたのである。何故ある国は繁栄し、

ある国は貧しい状態にとどまるのか。人口の都市への移

動や分布を変える要因は何なのか。工業の発展や立地を

規制するカは何なのか。このような地球表面で起きつつ

ある空間的不均衡に対して、その因果関係をつきとめる

学問的慾求が佐藤教授をとらえ、その解答を多様に追求

された結果が佐藤教授の幅広い地理学的レバートリーを

形成したのではあるまいか。

 いずれにしても、今世紀初頭から二〇年代後半項のヨ

ーロヅバが、単に地理学における商業地理学から経済地

理学への移行期ということにとどまらず、政治、経済、

社会、文化などのすべての領域での大変革期であり、こ

のような変化を地理学の眼を通して理論的に整理された

ものが佐藤教授の経済地理学の中核をなす交互作用理論

          ^2)

(弁証法的・歴史的動態論)であった。そして、この理

論は、さきにふれたウイットフォーゲルの「地理的唯物

論Lと比肩し、それを越える理論的水準に達していたの

である。

 このような理論の形成過程を佐藤教授のドイツ帰朝後

の数多い著作からいくつかビヅクアップしてみると、昭

和三年二月帰国された教授は早くもその年の十一月には

ラインハルト(内邑o岸犀o巨ブ彗o)を祖述した『政治経

  ^3〕

済地理学』(古今書院)を出版された。これは、教授み

ずから述べておられるように「日本文で書かれた経済地

      ^4)

理学の書物の最初」のものであった。翌昭和四年には

「交替作用の法則」(『地理学評論』第五巻第八号)が発

表された。これはディートリヅヒの交互作用理論のわが

国へのはじめての紹介であり、前述のウイヅトフォーゲ

ルの論文が出たのが同じ年であったことは偶然の一致と

いうべきであろうか。

 しかし、佐藤教授独自の地理的弁証法的交互作用論が

確立されるのはそれから三年後の昭和八年(一九…二

年)の『経済地理挙総論』(改造社経済学全集第六二巻)

においてであった。本書は、わが国における環境経済地

理学の代表作であり、ウイットフ才ーゲル論文とならん

で、世界における環境論経済地理学説の双壁をなすもの

468

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(27) 経済地理学と経済立地諭

という評価を得ている。

 佐藤理論の特色は、教授の真弟子にあたる脊木外志夫

教授によれば、ウイヅトフ才ーゲルが唯物弁証法的視点

から問題を自然と人間の対立物の統一としてとらえ、そ

の中間項(H皇ω昌彗oq=&)に労働過程を導入し、それ

を労働カ、労働手段、労働対象の三つの要素と関連づけ

て交亙作用論を構成する点を評価しつつ、さらにそれを

位置、気候、その他の自然条件と具体的に関連づけて原

料化↓製品化↓販給化の三段階に分けて体系化された点

            ^5)

に特色があるといわれている。

 しかし、このようなユニークな佐藤教授の理論に対し

て、青木教授は、その欠陥として「佐藤理論には、ウイ

ットフ才ーゲル理論の欠陥がそのまま継承され」、「労働

過程と価値形成・増殖過程との統一である生産過程を労

働過程に倭小化した」と指摘される。「その結果-・…生

産関係が軽視されて、体制論的・比較体制論的分析に弱

い欠陥があり、また価便H価格範曙が欠落して、定量分

析理論として発展する方向が閉ざされている。」その改

善発展方向として、「このようなウイヅトフォーゲル理

論の欠陥を克服する必要があり、そうすることによって、

交互作用理論の分析的有効性を高めることができるであ

          ^6)

ろう。Lと述べられている。

           ^ヱ

 佐藤経済地理挙の体系は、四つの領域、すなわちH方

法論(定義、発展史をふくむ)、H資源論、⇔工業立地

論、㈲経済地誌から構成され、Hの方法論に含まれるも

のとして理論が位置づけられているのが特徴である。そ

          ^8)

して、この方法論(理論)と実証の統合した成果が資源

                    ^9〕

論や経済地誌の多くの著作として残されている。しかし、

工業立地論については、実際の研究面ではその仕事を後

進の青木外志夫教授に委ねられることになる。

 (1) 佐藤弘教授の経歴・業繍については、詳しくは「名誉

  教授佐藤弘略歴」、「名誉教授佐藤弘著作目録」『一橋論叢』

  第四六巻第六号、昭和三六年、参照。

 (2) 青木・河野、前掲論文(四九〇頁)、参照。

 (3)雰ヲ冨具戸ミ雨菱{募§意§ぎ§軋ミ“ミ}oぎ専軋-

  計ミき、♪、b~~一

 (卑) 佐藤弘「経済地理学への希望」『地理学』第四巻第一

  号、昭和十一年一月、四九頁。

 (5) 背木・河野、前掲論文、四九〇~四頁。

 (6) 同、四九四頁。

 (7) 尾留川正平編『経済地理』(新地理学議座、第六巻)、

  朝倉書店、昭和三〇年、一四貢。

964

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一橋論叢 第97巻 第4号 (28)

(   (

9 8)を)佐藤教授は、その主著『総論』の申で教授自身の理論

「方法論」と呼んでおられる。

前掲「名誉教授佐藤弘著作目録」、参照。

戦後発展期と工業立地論

 -青木外志夫教授-

 わが国の経済地理学の革創期において、本学の経済地

理単講座が果した役割が大きかったことはいうまでもな

いであろう。それは佐藤教授の数多い著作、学会活動、

あるいは具体的産業政策等への参画などからも伺うこと

ができる。そして、以上のような伝統と蓄積の上に本学

は経済地理挙研究のメヅカ的評価を確立しつつその成長

発展期を迎えることになる。

 この本学の経済地理学研究の発展期とでもいうべき時

期に、佐藤教授とともに経済地理学講座を担当され、工

業立地論を中心にその伝統を築き、理論的研究と実証的

研究という佐藤経済地理学の学風を継承発履させられた

のが青木外志夫教授であった。

      ^1)

 青木外志夫氏は、本学(東京商科大学学部)を昭和十

九年の九月、大平洋戦争の戦況が日本に不利となりつつ

ある時期に、学徒動員による半年操上げで卒業され、兵

役につかれた。しかし、日本は一年後には敗戦を迎える

ことになる。先生は戦後の混乱がやや落つきをとりもど

し・た昭和二四年五月に再び研究科に特別研究生として入

学され、その後昭和二十九年三月に同科を修了された後、

七月に東京商科大学から一橋大学と名称を変えた経済学

都の助手に採用された。戦後の混乱期に、経済地理学の

研究を続け、講座の単間的財産を守られた先生は、佐藤

教授を支援すべく講座の一員として参加されることにな

ったのである。

 このようにして、青木先生は、佐藤先生とともに、戦

後の一橋大学の経済地理学講座担当者として新しい遣を

開拓されることになる。すなわち、その後昭和三一年に

専任講師、三二年に助教授、四〇年には教授に順次昇任

され、佐藤教授の後継者として講座を継承され、昭和五

九年四月停年により本学を退職されるまで、三〇年にわ

たって経済地理学、経済立地論、環境経済論等の講義を

担当された。

               ^2〕

 これらの教育と後で述べる研究業繍を通じて、先生は

本学の経済地理学講座の歴史と伝統の形成に犬きく貢献

470

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(29) 経済地理学と経済立地識

されたのである。また、単に挙内だけでなく学会での活

動としても、先生は昭和四八年から五四年にかけて三

期・六年の間、経済地理学会長を勤められ、それ以後は

同挙会関東支都長として現在まで、引続き学会を指導し

その発展にカを尽くされてきている。

 脊木教授の経済地理学の性櫓と特徴は、先学の佐藤教

授がその挙間体系の一つの柱に据えながら、自からは研

究に手をつけずに残された工業立地論の領域を、佐藤理

論の方法論に即しながら、ウエーバー(≧守&≦oσ雪)

           (3)

の工業立地論の「純粋理論」の成果やフローレンス

(勺;甘ω・ヨo『昌8)の立地係数(一〇〇註昌{oま鼻)、

局地化係数(8o彗9昌けo=os=畠け一g)などを穣極的

に咀囎摂取し、それをさらに発展させて、戦後の混乱を

脱却して高度成長期を迎えつつあったわが国経済の立地

政策や実証分析に適用されたことであろう。

                 ^4)

 その代表的な論文を二、三拾ってみると、ウエパーの

工業立地論を検討し発展されたものとしては、教授の単

独処女論文として学会で注目された「観念重量計算法に

よる工業立地の運送指向の測定」(『経済地理学年報』第

一巻、昭和三〇年)、「経済地理学へのウエーバー立地指

向論の摂取L(『一橋論叢』第三三巻第六号、昭和三〇年

六月)、「工業立地における費用因子について」(『一橘論

.叢』第三七巻第二号、昭和三二年二月)などである。

 これらの先生の初期論文は、その標題からも明らかな

ように、ウエーバーの立地指向論を経済地理学の基礎理

論として「摂取」しようとするものであった。そして、

これらの論文の性楮を先生自からも「従来の経済地理学

的立地論は、立地因子の論述に重点を置いて、計測的精

密性に乏しいので」、「この欠陥を……救うことを主題と

して」「立地分析の計測的武器を引き出すと共に、若千

の改造を試み」たと述べられている。その一つが「観念

重量計算法」(5S一-ξo屯岸O邑昌訂叶ζ-呂茎一a)であり、

また、労働係数分析法の実際化、あるいは「費用因子」

分析における移送費、生産費、原料費、加工費の立地牽

引特性を解明した「等距離線法」の創案などである。

 また、フローレンスの立地係数に関連する論文として

は、「フローレンス立地論の若千の基本問題」(青木外志

夫.西岡久雄編著『経済立地の理論と計画』時潮社、昭

和四二年、第十一章)がある。これは、フローレンスが考

案し、その後呼称は若干変っても各種の生産特化・集積

174

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一橋論叢 第97巻 第4号(30)

指標として広く適用されている指標の発想・完成の経緯

を理論的に検討し、それをわが国の高度成長始動期(昭

和二八、三四年)の工業立地分析に適用した一ものである。

 以上のような諸論文に示された青木教授の経済地理学

の特徴は、経済地理・立地理論の精激化と丹念な実証分

析の統合であって、このような特徴はその他のすべての

論文に一貫して貫かれているものであるといってよい。

これは先挙の佐藤教授が強調された経済地理学における

理論的研究の重要性と、理論のための理論に陥らない

「実証的な、具体的な研究・調査」の不可欠性を確実に

実践されたことを示しているのである。

 脊木教授が本挙の経済地理学講座を担当された昭和二

九年から五九年に及ぶ三〇年間は、日本経済が戦後の混

乱期を脱して奇蹟的な高度経済成長を遂げたまさにわが

国経済の激動期であり、わが国経済の構造が急激に変化

する過程で、地域開発計画、工業立地集積問題、都市

化・工業化の進展と過密・過疎間魑など様々な問題が発

生し、その解決を求めて経済地理学や経済立地論がその

解決指針を提示することが社会的に要講された時代であ

りた。これらの時代的要請に応えて、青木先生は佐藤教

              ^5)

授とともに日本工業立地センター(現在日本立地センタ

ー)や通産省の各種委員などの仕事を通じて現実問題に

も稜極的に取組まれてきたこともつけ加えておく必要が

あろう。このような実社会への積極的な参加は、本学の

創立理念とも一致する本学の伝統であり、官・産・挙の

共同を通じて社会の経済地理的問題を解決することに尽.

すことも本学の経済地理学講座の伝統と特色であるとい

ってもよいよ土つに田心われる。

(1) 「青木外志夫名誉教授略年譜」『一橋論叢』第九二巻第

 二号、昭和五九年八月、参照。

(2) 「背木外志夫名誉教授著作目録抄」『一橋論叢』第九二

 巻第二号、昭和五九年八月、参照。

(3) ミ告3≧守&一q庁ミ軋§い、§きミ軋ミーミ§ミ§一

 向;、ミ『雨呉完&s“-一き雨ミ㌣軋雰吻§茗軋oミタH饒巨■o目o目一Hooo.

 江沢譲爾監修、圓本産業構造研究所訳『工業立地論』犬明

 堂、昭和四一年、篠原泰三訳『工業立地論』大明堂、昭和

 六一年。

(4) くわしくは、脅木・河野「経済地理学」(音木教授と

 経済地理学)、前掲『学問史』四九九-五〇五頁、参照。

 以下の記述は、主として上記拙稿による。(関連引用文献

 については、上記拙稿の注、参照)

(5) 圓本工業立地センターについては、佐藤教授が設立に

472

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(31) 経済地理学と経済立地論

尽力されて初代理事長をつとめられた。なお、関連して

『産業立地』第二五巻第十二号(創立二五周年記念号)

昭和六一年十二月参照。

’、

歴史地理学と経済立地論

 -石田・小原・江沢教授1

 本学における経済地理学の研究・教育の歴史と伝統・

特色について、経済地理学講座を中心に、創設以前の商

業地理時代も含めて簡単にみてきたが、ここで上記以外

の本学教官の経済地理学および立地論への貢献について

             ^1)

簡単にふれておくことにしよう。

 まず、歴史地理学的方法論に基づく研究で独特の分野

を開拓された先学に石田龍次郎教授がおられる。石田龍

次郎氏は、昭和二年四月に東京帝国大学理学部地理学科

を卒業後ただちに東京商科大学予科講師に就任され、昭

和九年には教授に昇任されて予科で地理挙を講義された。

.その間、商学専門部の経済地理挙を担当されたこともあ

った。また、戦後の学制改革で本挙が一橋大学となって

からは、前期課程で人文地理学を、また後期課程で社会

地理学を講義された。戦前の昭和初期から、昭和四二年

の停年退官まで、佐藤教授とほビ同じ時期に、本学で教

育と研究にたずさわってこられた。

 石田教授の地理学は、[口本地理恩想史、地誌、集落地

理学、経済地理学と多岐にわたっているが、その特色は

歴臭地理学的方法論に依拠した実証主義ということがで

きよう。この点、理論地理学的方法を基礎とする佐藤地

理学とは異なっていたが、どちらも実証を重視された点

は共通しており、このような実証主義の伝統は方法論は

異なっても本学の経済地理学の形成に大きく貢献したと

いってよいであろう。

 石田教授の諸論文の中から上記の特色に関連するもの

を拾ってみると、昭和八年に発表された「地理学に於け

る法則性」(『地理教育』第一七巻第四号)は、人文地理

学を従来の応用地理学的位置づけから分離して、社会科

学に属する独自の一分化地理学であることを主張された

                    ヒェ

画期的な論文であった。また、「北上山地の稗・覚え書

-後進地の諸条件」(『一橋論叢』菱二五巻第三号、昭

和一三年)や「能登上布-目本の村落工薬に関する事

例研究」(『一橋論叢』第四六巻第六号、昭和三六年)な

どは「現在を過去の累積の結果としてみる」石田教授の

473

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一橋論叢 第97巻 第4号(.32)

歴史地理学方法論のすぐれた経済地理学的モノグラフィ

といってよいだろう。

 同じ歴史地理学的方法論に基礎を置きながら、本学の

経済地理学の伝統形成に寄与された先学に小原敬士教授

がおられる。小原敬士氏は、昭和四年三月に東京商科大

挙を卒業され(金子鷹之助教授指導・経済史専攻)、た

だちに横浜市立横浜商業専門学校(現横浜市立大学)に

奉職されて商業地理学と経済地理学の講義を担当された。

その後、昭和二四年に本学経済研究所教授に就任された。

小原教授は本学において地理学分野の講義を担当された

ことはなかったが、研究と著書・論文を通じて経済地理

学(人文地理学)の発展に貢献された。また、昭和三八

~四四年に経済地理学会長に就任され、学会発展に尽さ

れたことも忘れてはならない。

 このように、石田、小原両教授の地理学方法論がとも

に歴史地理学的方法論を重視されるものであり、その立

場から経済地理学の基礎理論として立地論を位置づける

ことに否定的見解を示されていた。しかし、はじめに述

べたように十九世紀末に勃興し、今世紀三〇年頃までに

隆盛をもたらした経済地理学は、環境決定論から交互作

用論の時期を通って漸次立地論的経済地理学の色彩を強

めてくる。

 たとえぱ、ウェーバーの『工業立地論』(>・峯き員

q吐ミ軋§9§きミ軋ミ§軋§ミ“§一■;“ミ箏呉弟雨“§

§§ミ雨き}9§きミ3↓夢巨鵯pss)の初版が出たの

が一九〇九年である。また、レッシユの『経済立地論』

(>奏畠け■α竃戸b㌣ミミ§ミoぎoミミミ素、ミミミ}oぎ-

ミω巨津oq彗FH睾o)が一九四〇年に出ているが、これ

は第二次世界大戦の直前にあたっており、その紹介と研

究は戦後に持ち越されることになる。経済立地論の古典

というべき二つの著書が戦前期に現れているのである。

そのほか、フーバー(■品胃声=ooく冒)の『靴皮革

産業立地論』(卜§ミ軋§『ざoミ§匙ミ吻ぎ雨§軋卜§-

きミ、ミ§ミきO凹昌耳一屠96署)や『経済活動の立

地』(『ぎト§ミざ§呉向s§§㌻\o、ミ掌老oξく冒ぎ

sぶ)、あるいは以上の立地論とは若干系譜の異なるク

リスターヲー(名巴叶曾Oブユ㎝訂=胃)の中心地理論(b膏

ミミ§、§◎ミ雨ぎいミ軋§ミ“ξミsミトー昌p63)などが

出現してきている。

 このような状況の中で、戦前から立地理論に精カ的に

474

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(33)経済地理学と経済立地論

取組まれてその成果を公表さ札てきたのが江沢譲爾教授

であった。江沢譲爾氏は、昭和五年三月に東京商科大学

を卒業され(吹田順助教授指導、ドイツ語・古典哲学・

思想史専攻)、昭和十六年四月に予科教授に就任された。

教授は本学ではドイツ語の担当であり地理挙分野の講義

は持たれなかったが、昭和二二年に予科教授を辞任され、

神奈川大学教授をへて昭和三〇年四月に専修大学教授に

就任され、経済地理学、経済立地論の講義を担当された。

江沢教授は本学で直接、これらの学科を担当されなかった

とはいえ、次に述べるようなすぐれた著書・論文を通じ

て経済立地論と経済地理学の発展に寄与されたのである。

また、昭和四四~四八年に経済地理学会長として学会の

ために尽カされたことも特記する必要があろう。

 江沢教授の業績をその著書・論文でみると、既に昭和

十年(一九三五年)に『経済立地学-その論理的構成

-』(河出書房)、十三年(一九三八年)に『経済地理

学の基礎理論』(甫郊社)を出されている。この同じ年

に、ウエーバーの翻訳『工業分布論』(改造文庫版)が

出された。なお、参考までに記せぱ、ウェーバーの研究

書として声価の高い伊藤久秋教授の『ウエーバー工業立

    (2〕

地論の研究』が昭和十五年(一九四〇年)に出ている。

また、戦後になっては、江沢教授は研究を精カ的に進め

られ、『経済立地論』(学精社、昭和二七年)、『工業集積.

論』(時潮杜、昭和二九年)、『産業立地論と地域分析』

(時潮社、昭和三七年)、『経済立地論の体系』(時潮社、

昭和四二年)、等を順次世に間われた。これらの著作は

わが国における経済立地論の研究を世界的レペルに引き

上げたものとして学会の高い評価を得ている。

 最後に、江沢教授の学問的特色について、青木教授の

            ^3〕

コメントを参考までに引用すると、「戦前における-・江

沢教授の経済地理学の特色は、ドイツ古典哲学の影響に

よる思弁哲学的色彩が強く、 …経済地理学と経済立地論

(学)は名称は異なるが実体は同じ-と考えておられた

ことである。」と述べられ、佐藤教授の見解と比較して、

「佐藤教授は-立地論を一領域としてふくむ広い領域を

包括して、経済地理学の実体と考えておられた。」とし

て「江沢見解は狭きに失し」ていると評されている。ま

た、戦後の諸著作については「経済立地論を空間経済学

的に純粋理論化しようとする志向が強」かったと指摘さ

れている。しかし、このような学間体系や方法論につい 蝸

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一橘論叢 第97巻 第4号(34)

ての理解に差異があったとしても、江沢立地論の到達点

が世界的に高い水準にあることについては皆見解が一致

しているのである。

 (1) 以下の記述は、青木外志夫・河野敏明「経済地理学」、

  前掲『学問史』、四九五~四九七員、によっている。なお、

  詳しくは同論文、参照。

 (2) 本書の絶版後、それを書き直されたのが『ウエーバー

  工業立地諭入門』(大明堂、昭和四五年)である。なお、

  本響の末尾に脊木外志夫教授の立地論研究小史ともいうぺ

  き解説がある目

 (3) 青木・河野、前掲論文、四九七~四九九貢。

七 今日的課題-c§§1き之

 以上で概略みてきたように、本学における経済地理学

と経済立地論の分野での学問発達の歴史は古く、先学が

築かれた輝かしい伝統と挙問的遺産は大きいのである。

このような歴史と伝統を誇る本学の経済地理学の豪華絢

燭たる学問的遺産を前にして、現世代の同学と後に続く

世代に問われる言葉はC§§-§己(いずこへ?)とい

う反問であろう。つまり、偉大な先学の栄光を引継ぎ、

毛れを背負ってわれわれはこれからいずこへ遼めばいい

のか? 経済地理学の今日的課題は何なのか?

 イギリスの歴史学者ジョン・ロバーツ(」O;勾Oσ曾-

芭は「西洋文明の功罪・危険な贈り物」(BBC制作)

の中で、「歴史とは過去を通して現在を知ることだ」と

いう意味のことを云っている。この論法をここで拝借す

れぱ、本学における経済地理学と経済立地論の研究発展

史を十七~八世紀のマーカンチリズムを支えた商業地理

まで遡って説き起し、経済地理学の勃興を十九世紀末か

ら二〇世紀にかけての各国資本主義の発達とそれに伴な

う複雑な地域経済間題と矛盾の発現に対応する社会的要

請として把え、このようなバースペクティブの中で、明

治以降における日本資本主義の発達と本学での経済地理

学研究史を交錨させてみてきたのは、まさにこのような

世界史的な現実の動きと研究の相即的対応関係の中で経

済地理学の今日的課題を照射し、明らかにしたいためだ

ったのである。

 現在、改めて指摘するまでもなく、世界経済は大きく

回転しながら今までの軌遣と異なる方向へ動きつつある

ようにみえる。それがどのような方向を目指すのか、ま

た、その道程でどのような変化が待ち受けているのか、

476

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(35)経済地理学と経済立地論

それは現在では必ずしもさだかではない。しかし、最近

における国際経済と国内経済のどの一つの現象をとって

みても、それが今までのルールとは異なってきているよ

うな気がするのである。つまり、それは国際化の進展と

情報化社会へ進む中で、世界全体がc§§-§己と反

間している姿にほかならないのではあるまいか。

 問題を経済地理学と経済立地論に隈定して考えてみる

と、現実の経済の動きは新たな課題をその対象に追加し

てきている。たとえぱ経済立地論の課題について考えて

みると、その対象は一国民経済から全地球的規模に行動

範囲を拡げてきていることがわかる。白動車をはじめ、

エレクトロニクス、その他多くの企業がアメリカ、ヨー

ロヅバ、あるいは東南アジアなどへ進出し、企業の最適

立地の選択間題は、グローバルな視点から立地因子を再

検討する段階にきている。新たな内外条件の変化の中で、

日本の企業は、資本と技術をもって、世界のどこへでも

進出することが必要になってきたし、実際にもそうして

きているのである。

 このような変化をもたらした原因はいろいろ考えられ

るであろうが、それを;冒でいえぱわが国経済の飛躍的

な発展とそれに基づく輸出の増大、国際収支の黒字累稜、

為替相場の円高推移、その他一九八○年代になって顕著

になってきた貿易摩擦に関連する国際経済間題が考えら

れる。アメリカは日本との貿易収支の歴大な累積赤字の

解消を求めて、わが国の市場解放を迫り、それはオレン

ジ、牛肉、タバコ、弁謹士(営業資格)、関西国際空港

建設入札、そして最近では従来聖域視されていた米にま

で及ぼうとしている。そしてさきにみた企業の海外立地

自体が一つには貿易摩擦の回避策としての企業の対応で

もあったのである。

 このような状況変化の中で、国内的には企業の海外進

出の結果として国内産業の空洞化が憂慮され、また農業

の存続が危機的状況にあることがますます強く自覚され

るようになってきた。他方、円高と輸出不振による鉄鋼、

造船などをはじめ、殆んどすべての業種での不況は深刻

化し、その再編が急務となってきている。その裏腹の関

係として、わが国の貿易黒字累稜と円高などを背景に、

東京の国際金融都市としての浮上がビル、オーフィス需

要の増大をもたらし、それは東京都心部から周辺に向け

ての地価高騰となり、都市再開発問題が目下検討中の四

Page 21: 経済地理学と経済立地論 : 一橋の伝統と今日的課題 URL Right › rs › bitstream › ... · (19)経済地理学と経済立地論 る知識体系の一翼を担っていたといえよう。関連で、事の善悪は別として、マーカンチリズムを支え貿易や世界資本主義の進展に伴なう植民地分割などとのるいは商人地理学であり、以上で概略みたように、外国

一橋論叢 第97巻 第4号 (36)

全総とも関連して大きな課題となっている。

 以上、極く大薙把にわが国経済が直面している問題を

経済立地論との関連でみてきたが、これらの限られた側

面についても、国際経済が貿易問題から立地問題へ推移

し、それが全地球的な規模で経済活動の範囲を拡げると

同時に、国内的には地域産業の空洞化、都市再開発と地

価問題、地域経済構造の再編など様々な経済地理学的課

題を提起してき・ているのである。

 このような経済地理学と経済立地論の今日的課題に適

切に応えてゆくことが、歴史と伝統を誇る本学の使命で

あり、若い世代の中からこのような問題に関心を持ち、

カを貸そうとする者が一人でも多く現れることを期待し

たい。

 (付記) 本稿は、青木外志夫・河野敏明「経済地理学」(一

  橋大挙学園史編集委員会編『一橋大学学問史』、昭和六十

  一年三月)に依拠しつつ都分的κ追加リライトしたもので

  ある。ただし、誤り、理解不足等についての文責はもちろ

  ん河野にある。

                  (一橋大学教授)

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