北勢線の魅力を探る報告書5 (1558~1570)には多湖 たご 大蔵 おおくらの...

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1 開催日: 2009年4月19日(日) 主催:北勢線の魅力を探る会 後援:桑名市、いなべ市、東員町、 北勢線対策推進協議会、三岐鉄道株式会社 桑員ふれあいの道協議会、桑員まちのファンクラブ 都市環境デザイン会議、うりぼう 北勢線の魅力を探る報告書 第 12 回 370 年程前から現在まで約 260 町歩を潤してきた この灌漑用水の魅力を辿りませんか六把野井水を歩く

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開催日: 2009年4月19日(日)

主催:北勢線の魅力を探る会

後援:桑名市、いなべ市、東員町、

北勢線対策推進協議会、三岐鉄道株式会社

桑員ふれあいの道協議会、桑員まちのファンクラブ

都市環境デザイン会議、うりぼう

北勢線の魅力を探る報告書 第 12 回

370 年程前から現在まで約 260 町歩を潤してきた

この灌漑用水の魅力を辿りませんか。

六把野井水を歩く

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麻生田駅~頭首工~麻生神社~山田川 伊藤 忠

麻お

生田う だ

駅で 8時半から受付を始めるとボツボツと参加者が集まってきて、9 時 15 分に桑名

からの電車が入ってくると一気に増えました。お天気がよく絶好のウォーキング日和で参加

者も初めて 150 名を越えました。車中で受付を済ませて頂いたので混雑もなく、 代表の挨拶

のあと弱視の佐藤さんよりお世話になりますとの一言、土井先生より簡単に井水の説明があ

りました。

北勢線車中 麻生田駅

先導者に続き元気に出発、10分ほどで員弁川に到着、昭和41年完成の六把ろ っ ぱ

野井の ゆ

水頭首工すいとうしゅこう

を見て、その横から竹やぶの中(事前にメンバーの方が竹を切って人一人通れる道

を作ってくれました)を抜け員弁川縁に沿って約1キロ歩くと昔の取水口があった麻生あさお

神社

に到着しました。

六把野井水頭首工 竹やぶに入るところ 員弁川に沿って歩く

第12回北勢線の魅力を探る ~六把野井水を歩く~ 参加者:153名(内子ども5名)

説明:いなべ市語り部の会 伊藤忠さん、渡部勇さん、二井靖呼さん

おきもの工芸館 館長種村学さん

八幡新田 中村博さん、自治会長中村宗和さん

3

麻生あ さ お

神社は麻生田地区(330戸)の氏神さんで縄文時代の宗教的遺物と言われる{石棒}

が六反(久保院く ぼ い ん

近く)で出土し当神社の所蔵品になっています。桑名藩主本多ほ ん だ

忠勝ただかつ

公寄進の

「初古寺」と刻まれた銅額面が宝物として保管されています。

明治40年の合祀令により地内の神社6社が神明社に合祀され麻生神社になりました.そ

の後改築、修復を重ね平成6年拝殿が新築されました。

南山には古墳時代前半に築かれた前方後方墳があり長白羽の神(天白社)の末裔で麻を栽

培して朝廷に献上していた「麻績連おみのむらじ

」の墳墓と伝わっています、この地域は古代から麻の栽

培が盛んで麻生田の地名の由来でしょう。

江戸期桑名藩領となり当神社下の員弁川に六把ろ っ ぱ

野井水の ゆ す い

の取水口(頭首工)が設けられ水下1

3カ村から守り神として崇敬され、神社の大 幟のぼり

一対は古くなると組合から贈られるのが慣わ

しで、嘉永 4 年 9 月石柱(御神燈)を建て雨乞いの神事がたびたび行われたそうで往事が偲

ばれます。

麻生神社入口 説明する伊藤忠さん 麻生神社

この先トイレが当分無いということで、列を成して並んで、最後の人の出発はずいぶん遅

れました。井水に沿って可憐に咲くタンポポをめでながら、井水の心地よい水音を聞きなが

ら山田川まで歩きました。

山田川で井水は逆サイホン式(伏せ越)になって川の下を潜って対岸に繋がっています。約

50年前は川を堰き止め水を送っていたそうです。江戸時代手作業で山の麓の水路作りは大

変な作業だったでしょう。

井水に沿って歩く 足元にタンポポが… 山田川逆サイホン出口

4

上笠田城跡 西村 健二

山田川との逆サイホン式による交差地点からすぐのところで井水は北勢線と合流します。

鉄路とともにしばらく進むと左手に桃が見事な花をつけていました。この辺りがかつての脱

線事故現場で、特に説明は行いませんでしたが、現場に向かって手を合わす参加者の姿もあ

りました。現場東側の楚そ

原はら

第 8 号踏切を渡ったところには小さな空き地があり、草が茂って

いました。かつての上笠田かみかさだ

駅(平成 18 年 4 月 1 日廃止)跡地です。平成 16(2004)年 9 月

20 日に行われた第 3 回「水の恵みを訪ねて」はここからスタートしました。

山田川鉄橋を背にして 事故現場付近 上笠田駅跡地

駅跡地を過ぎたところで『員弁町史』の編纂にも携わった渡部わたなべ

勇いさむ

さんから上笠田城の歴

史について説明がありました。そしていよいよ登城です。城跡の登り口には城山しろやま

稲荷いなり

大 明 神だいみょうじん

と刻んだ石碑(昭和 27 年 4 月建立)が立ち、そこから急な坂を登ります。坂道の下には城跡

を井水が縦断しており、丘陵を削った当時の工事がいかに困難を極めたかが想像できました。

登り切ったところに城山稲荷大明神の小さな祠がありました。祠の両脇には昭和 2(1927)

年 1 月に建てられた狐がありますが、台座のみが当時のもので、狐自体は新しいもののよう

でした。昭和 54(1979)年 3月には賽銭箱も新調され、祠は現在も地元住民の信仰を集めて

います。

城山稲荷台明神石碑 登る人と降りる人がすれ違う 井水は 7.5 メートルほど下

建武年間(1334~1338)、この周辺は多湖た ご

刑部ぎょうぶ

左ざ

衛門えもん

が領し、下笠しもかさ

田だ

城を中心に高 柳たかやなぎ

大井田お お い だ

・楚そ

原はら

・御薗みその

・美び

鹿ろく

などに勢力を持ちました。多湖氏は敏び

達だつ

天皇に始まる橘氏の末裔

を称して北勢四十八家のひとつに数えられた豪族で、永正 7年(1510)以降は伊勢国司北 畠きたばたけ

氏の緩やかな支配を受けました。上笠田城はもともと多湖氏の居城として築かれ、永禄年間

5

(1558~1570)には多湖た ご

大 蔵おおくらの

介すけ

実元さねもと

(寛元とも、1550~1590)が家臣の飯田佐衛門尉いいださえもんのじょう

信房のぶふさ

置いて守らせました。飯田氏は孝元こうげん

天皇に始まる紀氏の流れを汲んでいますが、詳細な家系

については信濃国飯田(長野県飯田市)から移ったとする説、伊勢国司北畠氏に従っていた

木造氏や平家物語に登場する伊勢国住人二に

井い

近ちか

清きよ

(親清)の子孫とする説など多くの伝承が

あって定かではありません。永禄 11 年(1568)2 月には織田信長の北伊勢侵攻によって滅ぼ

されました。下笠田城主多湖実元は信長没後に豊臣秀吉に仕え、天正 18 年(1590)4 月 7日

に小田原の戦いで討死しています。子孫は下笠田城跡に屋敷を構えて代々庄屋として続き、

戦前には山梨県知事をつとめた多湖実夫も輩出しています。飯田氏は信房の孫七郎左衛門の

代に二井氏を名乗って庄屋として続き、笠田大溜や笠田新田の開発に功績を遺しました。多

湖氏・二井氏いずれも員弁で繁栄して多くの子孫があります。

<参考文献>

員弁町史編纂委員会編 『員弁町史』 員弁町教育委員会 1991

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下笠田八幡神社 西村 健二

下笠しもかさ

田だ

八幡はちまん

神社じんじゃ

は仁寿元(851)年 1 月(4 月改元のため正しくは嘉祥 4 年)創建との伝

承がある古社で、北勢線が国道 421 号線の高架と交差する地点のすぐ東側に鎮座しています。

正面の参道は北勢線の楚原第 7 号踏切を渡る形で、本殿は線路に向かって南面しています。

余談ながら上笠田城跡にあった踏切は楚原第 8 号踏切でしたが、北勢線では西桑名駅を起点

に下り方面に向かって採番しています。つまり、この踏切は楚原駅の西側 7 番目に位置する

ということになります。

今回は西側から参拝する形になりましたが、本来は神社の東を流れる明智川を渡って参拝

するようになっています。北側に眼鏡橋を見ながら明智川にかかる宮橋(昭和 38 年 3 月架橋)

を渡ると正面に「村社八幡神社」、側面に「笠かさ

田だ

御厨みくりや

神明社しんめいしゃ

」と刻んだ社号碑(明治 22 年 2

月 18 日建立)が立っています。しかし、村社の文字は埋められているので昭和 9(1934)年

10 月の郷社昇格以降に行われたものでしょう。社号碑の側には昭和 9年 10 月建立の石灯籠、

昭和 15(1940)年 4 月に大阪市で藤田鉄工所を営む 4 兄弟が寄進した石鳥居があります。

国道 421 号を潜って 楚原第 8号踏切 下笠田八幡神社鳥居

踏切を渡って境内に入ると文化 13(1816)年 9月に建立された石灯籠が参拝者を迎えます。

最も目を引くのは拝殿前に並ぶ機雷と砲弾です。いずれも昭和 11(1936)年 9月に海軍中将

和波豊一が寄進したもので、和波自身の書で「通神」と記された機雷は戦艦陸奥(昭和 18年

沈没)、「至誠」と書かれた砲弾は戦艦長門(昭和 21 年沈没)で使用されていました。和波家

は下笠田城主多湖家に仕えた和波彦九郎わなみひこくろう

を祖とする旧家です。海軍兵学校を 32 期、海軍大学

校を 15 期で卒業して潜水艦畑を歩み、昭和 9年 11 月に潜水学校校長に就任、昭和 10(1935)

年 11 月には海軍中将に進みました。翌 11 年 3 月 30 日付で予備役に編入されたことから、こ

の機雷と砲弾は和波が退役を記念して郷土の神社に寄進したものであることが分かります。

機雷と砲弾に見守られながら参拝した下笠田八幡神社はもともと庄屋多湖兵太夫の屋敷内

に祀られており、天保 2 年に修復され、元治元(1864)年 8月 16 日に新たな社殿を建てまし

た。そして明治 8(1875)年 8 月 5 日に現在地に遷されました。修復・造立・遷宮時の各棟

札は現在ものこされていますが、幕末の 2 枚は養寿院(いなべ市北勢町治田はった

)の僧常照と永

良が記し、明治になると神仏分離がなされて猪名部い な べ

神社じんじゃ

(東員町北大社)宮司石垣方貞が記

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しています。祭神は八幡神である品陀ほんだ

和気わけの

命みこと

(応神天皇)ですが、現在は天照大御神(笠田

御厨神明社の祭神)・菅原道真すがわらのみちざね

・建たけ

御名方みなかたの

神かみ

・大 山 祇おおやまつみの

神かみ

・火産霊ほむすびの

神かみ

(明治 41 年 1 月合祀

の山神社の祭神)も合祀されています。

境内西側には境内社として護国神社が鎮座し、西南戦争から太平洋戦争(昭和 26・37 年の

戦病死者伊藤捨市・市川誠義を含む)に至るまでの地元出身戦没者 22 柱が祀られています。

平成 11(1999)年 11 月 11 日には護国神社の周辺が整備され、石灯籠や狛犬、戦没者氏名碑

が建立されました。護国神社南側には神武天皇陵・明治天皇陵遥拝碑(昭和 11 年 11 月 11 日

建立)が立っており、境内東側には伊勢神宮遥拝碑(昭和 9年 10 月建立)と皇居遥拝碑(昭

和 15 年建立)も立てられています。

下笠田八幡神社 護国神社 マンボから八天宮浄水に

その他にも境内には多くの石造物が点在しており、大正13(1924)年7月に和波 久ひさし

(号不休ふきゅう

和波豊一の甥)が寄進した東宮(後の昭和天皇)殿下御成婚記念水道や八天宮浄水碑(平成

9 年 5月建立)・カゴノキの板碑(室町期)などがあります。このようなことからも地元の方々

が熱心に信仰している様子が伺えます。また、現地ではいなべ語り部の会の二井靖呼に い や す こ

さんに

説明をお願いしましたが、続々と到着する参加者に対して繰り返し説明をしていただき、さ

らには熱心な参加者からの個別の質問にも答えていただきました。末筆ながら御礼申し上げ

ます。

八天宮浄水碑 カゴノキの板碑 説明する二井さん

<参考文献>

古瀬久次郎編 『員弁郡名鑑』 員弁郡名鑑刊行会 1925

新人物往来社編 「別冊歴史読本 戦記シリーズ 48 日本海軍将官総覧」 新人物往来社 1999

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めがね橋、ねじり橋から明智川 集山一廣

下笠田八幡神社の境内を分断するかのように北勢線は北東側にくの字を描いて明智川に伸

びて行く。踏切から見ると大きくカーブを描くナローゲージの可愛らしい佇まいが周りの田

園風景とマッチして撮影ポイントの一つとなっている。神社の裏側を流れる六把野井水は山

田川を渡るそれよりもさらに大きく迂回して明智川と交差する。河川は谷となるため勾配を

維持するためには自ずと川上に廻りこむことになる。交差点は気圧差を活用した逆サイホン

の原理で河川の下を潜るという伏越しによって、明智川と混じり合うことなく立体交差する。

この立体交差は明智川伏あけちがわふし

越こし

暗渠あんきょ

という。現在はコンクリート製で40mの長さがあり、段状

の形が見て取れる。

明智川伏越暗渠入口 明智川(この下を井水が通っている) 明智川伏越暗渠出口

このあたりでは北勢線が明智川と迂回した六把野井水を渡る2つのコンクリートブロック

製の橋が見所となっている。1つはアーチが連続することから「めがね橋」と呼ばれる明智あけち

川がわ

穹 窿きゅうりゅう

橋きょう

。(穹窿は「ゆみがた アーチ」)もう1つは六把野井水と40度の角度で交差する

「ねじり橋」と呼ばれる六ろっ

把ぱ

野の

井ゆ

水すい

拱きょう

橋きょう

とである。(拱橋とはアーチ橋のこと)どちらも

建設当時は資材不足であったために石積みに倣った珍しいコンクリートブロック製のアーチ

橋となった。特にねじり橋ではひとつひとつのブロックがねじれたように積まれ、現存する

コンクリートブロック製の橋では唯一だといわれる。普段は寄りつき難い場所であるが、近

ごろ有名となったせいか脇道の草取りが行届いていて難なく歩けるようになっていた。

めがね橋(明智川拱橋) ねじり橋(六把野井水拱橋)

土木学会から出版されている『現存する重要な土木構造物 2800 選』によれば「ねじり橋」

はAランクの国指定文化財クラスに相当し、「めがね橋」はBランクの県指定文化財クラスに

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相当するとされている。しかも、現役で活躍している点では本当に貴重な生きた文化財であ

ると言える。この2つの橋の設計者は多湖英一さんという地元の腕のよい大工さんだったそ

うだ。この方については、この後に訪れる東光寺のミニ講演会の報告を参照されたい。ねじ

り橋とめがね橋の施工者については橋の側面の銘板に記されていたので記述する。

ねじり橋:「北勢鉄道線六把野井水拱橋 大正4年十一月十三日着手 大正5年七月十五日

竣功 専務取締役/稲垣専八 主任技術者/神田喜平 監督技手/浦上悦治 同雇/橋本代吉/

柳瀬彌市/近藤由雄 工事請負人/郡竹治郎」

めがね橋:「北勢鉄道線明智川穹窿橋 大正四年十一月十日着手 大正五年七月三日竣功 上

記と同じ」

両橋の工事を請負った郡竹治郎は久米村坂井(現在の桑名市坂井)の施工業者である。

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明智川~東光寺 伊藤 通敏

明智川左岸の河岸段丘の坂道を登って下笠田の集落に入る。そろそろ昼に近づいてお腹が

減ってきた。

員弁西小学校 北勢線をまたぐ道路の上から左右を見る

ねじり橋や明智川サイホンをしっかり観察する人で、列はかなり延びてしまっている。コ

ースは員弁西小学校の前で街道から離れて南へ入るので、学校の前で立ち止まって最後尾が

来るのを暫く待つがなかなか姿が見えない。しびれを切らせて南進し昼食場所の東光寺へ入

る。本堂の中は既に先着隊で一杯、境内にも溢れている。

東光寺は浄土宗仏光寺派のお寺である。天文元年(1532)今の滋賀県草津市に創建された

が明治時代後期に現在地に移転、山号を笠田山と称するようになったそうである。お寺の前

には地蔵堂があり、その脇に小さな五輪石が沢山並んでいる。下笠田地区内から集めて祀っ

たもので 210 基あるとのこと。

東光寺 地蔵堂 五輪石

昼食後お庫裡く り

さんが用意されたお茶を頂いていると、本堂でミニ講演会がはじまった。テ

ーマは2つ。最初は「『ねじり橋』を設計した多湖た ご

英一えいいち

について」。英一の近所に住み、彼の

晩年を知る多湖邦興氏から戦後自分が 10 歳頃に聞いた話として興味深いお話が伺えた。

英一は明治 20 年生まれで、腕の良い大工として会社に勤めた。その頃は 65 歳で会社を辞

め悠々自適の生活をしていた。「めがね橋」と「東の橋」(ねじり橋のこと)の両方とも英一

が設計した。「めがね橋」は真っ直ぐで型枠の設計図は簡単に採用された。「東の橋」はねじ

れているため、型枠の設計図を描き何度説明しても許可が得られなかったそうである。 英

一の孫の話では、昔沢山の図面等が残っていたが 30 年前に家を新築した際にゴミとして焼却

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してしまったとのこと。唯一形見として残っているのがおじいさんが彫ったという 30cm 位の

仏像で、顔がおじいさんに似ているそうである。

ミニ公演会第 1弾 講師の多湖さん 観音像

英一は少し変わったところがあって、夏に「これがわしの避暑法じゃ」と言ってアオダイ

ショウを首に巻いたり、夏でも「腹が冷える」と言ってコタツに入ったりして 86 歳まで長生

きしたそうである。

もう一つは「員弁川地域の地形と六把野井水について」と題していなべ綜合学園の土井忠

之先生のレクチャー。

員弁川流域の地形は大きく分けて洪積台地と沖積平野に分かれる。洪積台地とは、今から

200万年前から1万年前、更新世と呼ばれる時代に氷河が溶けて海面が上昇していた時期に、

今よりも標高が高かった員弁川が作った当時の平野で、現在の河川よりも一段高い台地とな

っているので河岸段丘とも呼ばれる。

沖積平野は今から1万年前以降の完新世と呼ばれる時代に、現在の海面のレベルまで河川

の氾濫のたびに堆積作用が繰り返された員弁川の氾濫原だ。

六把野井水は標高 75mの麻生田の員弁川氾濫原にある頭首工から取水し、1,000 分の1(水

平距離 1,000mで 1m 下がる)~2,000 分の1の勾配で流して、標高 64mの北金井付近で自然

に洪積台地上に水を昇らせようとする灌漑用水で、江戸時代初期にこれが出来たことは驚異

的だそうだ。

会場にはこのほか六把野井水の古地図や、めがね橋やねじり橋の工事中の古写真も展示さ

れ、午後の出発時間まで沢山の人だかりができていた。

ミニ講演会第2弾 講師の土井さん 員弁川左岸の水利調査

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六把野井水古地図 ねじり橋の工事写真

13

吉備川~おきもの工芸館 近藤 順子

昼食、ミニ講演会を終え、午後の部、最終の大泉駅まで約 5.5K の道のりが始まる。ここで

一部帰られる方があり、搬送の車で、また歩いて楚原駅へ向かわれた。お庫裡さんにお礼を

言い最後に東光寺を出る。道に誰も見えないので急ぐと、六把野井水がみえるところで漸く

10人ぐらいの人々に追いついた。そのまま、井水が流れる土手の下の道をしばらく歩き、

次の坂を上がると井水の際を通ることが出来た。前を歩いている人が全く見えないので、み

んなは別のルートを取っているのではと危ぶんでいると、やはり御園団地の方から下りてく

る人々が見え、吉備き び

川がわ

筧かけひ

のところで漸く先発隊に合流できた。

午後のコースはじまり 井水に沿って歩く レベルを測る土井さん

吉備川にかかっている筧は、鮮やかなブルーで頭上 3.2 メートルぐらいのところを通って

いる。横の土手に人一人上がれる階段があり、下りる人をやり過ごして私たちも上がった。

昭和9年5月に長さ 7 間(約 12.7m)、幅6尺(約 1.8m)、高さ3尺(約 0.9m)の鉄筋

コンクリートに架け替え、昭和 32 年~43 年の大改良工事のとき改修したものである。昔は

長さ 8 間半(約 14.5m)、幅と高さ 2 尺 5 寸(約 0.75m)の檜で出来ており、松の木の蓋がつ

いていた。又、栗木で出来た 9 組の 3 脚で支えていた。当時は吉備川がもっと高いところを

流れており、道からの高さは今より低く、6尺(約 1.8m)であった。(参考多湖家古文書)

吉備川筧 吉備川筧上から いなべ総合学園が見える

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おきもの工芸館 所狭しと並ぶ展示物 種村学館長

ここからほぼ六把野井水沿いに員弁町東保育園の前まで行くことが出来る。その途中にい

なべまちかど博物館の一つである「おきもの工芸館」がある。ここは第 6 回の時も訪ねてお

り、廃材を利用した灯篭や仏間用の飾り額などが、ますます磨きがかかり、所狭しと座敷に

並んでおり圧巻です。館長の種村学さんは「捨てられるものだったものを新しい形に作り変

えてまた再生するのがうれしい」とコメントしていた。

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おきもの工芸館から八幡神社へ 西羽 晃

東光寺を出発してからバラバラの列になり、ほぼ最後尾についた私のグループはおきもの

工芸館では追いついたものの、再びの出発はバラバラに歩き始めた。まだ水の入らない田圃

が広がる中を井水に沿って淡々と歩く。北勢線の踏切のない所を渡るわけにはいかず、三角

形の2辺を歩くような形で員弁東小学校の横から踏切を渡った。懐かしい長宮駅の跡を横目

に見る。そして再び井水に沿って歩くも、個人の住宅地で遮られている。仕方なく迂回する。

ここで道に迷って、かなり余分に遠回りとなってしまった。

まっすぐに伸びる六把野井水 北勢線の線路と交差 右は笠田大溜からの水路

六把野井水沿いの道に出る。まっすぐの道であって、面白くも無い道である。グループは

完全にチリヂリになってしまった。携帯電話で連絡をとってもらったけれど、目印になるも

のがなく、自分の現在地も説明できない有様である。三本洞というところで何人かのグルー

プが集まって中村博さんから説明を聞いた。途中から六把野井水と並行してきた用水が立体

交差している。この用水の名前を聞き漏らしたので、後日中村なかむら

博ひろし

さんに電話でお訊ねした。

上流にある員弁大池や畑新田溜・藤溜などから流れてくる水で「溜がかり」と呼んでいるそう

だ。

延々と続く六把野井水 並行する六把野井水(手前)と溜がかり 立体交差、上が六把野井水

立体交差した六把野井水は丘陵の高い方へ流れていく。並行する戸上川とは逆に遡ること

になっている。なぜなのか水利権の問題であろうが、私には判らない。戸上川に架かる丁田

橋の右岸堤防を上流に行くと、懸樋が戸上川に架かっている。鮮やかな青色に塗装された懸

樋である。人は通れない水路橋である。

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丘陵に流れる六把野井水 道を挟んだ川とは逆に流れている 戸上川懸樋

丁田橋に戻って戸上川を渡ると、やがて東員町八幡新田に入る。直ぐに八幡神社の森が見

える。いよいよ最終の目的地だ。最先発グループは既にいない。我々が最終グループである。

早速缶ビールのご馳走にあづかる。私は遠慮したが、汗ばんだ体にはこたえられないビール

であろう。自治会長の中村なかむら

宗和むねかず

さんから説明を聞く。八幡新田は大木からの分れである。小

川家が代々庄屋を勤めた旧家である。小川家のご当主も来ておられた。八幡神社も大木神社

の分れであり、元は大木と八幡新田の境のところにあったが、後に現在地(八幡新田の北端)

に移った。八幡新田は都会化の波に会わず、ひろびろとした田園風景が広がり、鈴鹿連峰も

一望できる、気宇壮大な場所だと、自治会長の中村さんは郷土愛に燃えて熱弁をふるわれた。

しかし今後は都会化しそうな気配になってきたそうだ。

昭和25年完成の神田用水が出来たので、六把野井水も此処からはバラバラに分れている。

私たちも三々五々に帰途に着いた。大泉駅に着いて、「うりぼう」で1000円のお茶葉を買

ってクジを引いたが、見事に外れた。中にはお酒をもらった方も居られたのに。残念。

三本に分かれて流れる六把野井水 八幡神社 八幡新田自治会長中村さんの説明

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第12回北勢線の魅力を探る 報告書

「六把野井水を歩く」

編集・発行:北勢線の魅力を探る会

代 表:近藤順子

連絡先:いなべ市員弁町大泉 732(携帯電話 080-3073-3313)

発行日:2009年5月19日

http://www.it-support.or.jp/link/hiroba/hokuseisen-HP/

本報告書の著作権は上記発行者に帰属しています。ご利用の際は

ご一報ください。