ドゥルーズのドゥルーズの「 「「「良識良識」」」 …...6 [` ç ' q¯ `g *...

12
2 ドゥルーズの ドゥルーズの ドゥルーズの ドゥルーズの「良識 良識 良識 良識」批判 批判 批判 批判について について について について 原 一樹 1.はじめに 2.ドゥルーズによる「良識」定義、及び諸科学 の知見の摂取と批判 (le bon sens) 19 1 2 3 4 5

Upload: others

Post on 26-Dec-2019

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: ドゥルーズのドゥルーズの「 「「「良識良識」」」 …...6 [` ç ' q¯ `g * R ST# fg&

2

ドゥルーズのドゥルーズのドゥルーズのドゥルーズの「「「「良識良識良識良識」」」」批判批判批判批判についてについてについてについて 神戸夙川学院大学講師 原 一樹

1.はじめに 『差異と反復』においてドゥルーズは、同一性への差異の従属を保証する装置として相互補完的に働く「良識」と「共通感覚」を批判する。「純粋な差異」の領域を描き出す前の予備的作業としてこれが為されるわけだが、その内実が、ドゥルーズ自身の言説においても、また既存のドゥルーズ研究を見渡しても、十全に展開され理解されているとは言い難い。ドゥルーズの「良識」と「共通感覚」批判を検討するには、最終的には彼独自の能力論にも踏み込む必要があるが、本稿ではまずもって、ドゥルーズがインスピレーションを得たと見做される諸科学・諸哲学の源泉へ遡行すると同時に、現代科学の知見を踏まえつつ彼の立論を再検討することにより、特にドゥルーズの「良識」批判の内実の解明を目指し、「純粋な差異」に近づく為の外掘を埋める作業を果たすことを目指す。

2.ドゥルーズによる「良識」定義、及び諸科学

の知見の摂取と批判 そもそもドゥルーズは「良識」をどのように規定していたか、まずは確認しよう。 「良識とは本質的に分配者であり、配分者である。一方には、と、他方には、がその凡庸さと間

違った深みの定式化である。・・分配は、それ自身が差異を分配されるものへと払いのける時に良識と一致する。諸部分の不等性が、時間と共に環境の中で消滅するとみなされる時にのみ、配分は実効的に良識と、或いは良いと言われる方向と一致する。良識は本質的に終末論的であり、最終的な均衡と均質化の予言者なのだ。」1 この引用から理解すべきポイントは、一言で言えば「分配者」と規定される「良識」は、差異が徐々に均質化へと、即ち同一性へと向かう限りにおいてその存在を認めるとされる点である。良識は差異の存在を認めないのではない。時間につれ、環境の中で、均され消滅していくものとしての差異を良識は認める。この方向性こそが「良識=良き方向(le bon sens)」そのものである。ドゥルーズは更にこの方向性は「予測不可能なものから予測可能なものへ、差異の生産から差異の還元へ」進むもの、「過去から未来へ、個別から一般へ」進むものだと言う。2 ドゥルーズ独自の時間論における「第一の時間の綜合」に基礎を持つとされるこの「良識」は、19 世紀末に哲学や科学と奇妙な同盟を結んでいたとされる。この奇妙な同盟を作る溶鉱炉となったのが熱力学であったとドゥルーズは言うのだが、我々は彼が当時の熱力学やそれを踏まえた科学哲学からいかに触発され、「良識」という彼の「敵」となる概念を編み上げているかを聊か立ち入って検討しよう。 ウィリアムズがその端正な『差異と反復』への注解書で述べるように、ドゥルーズにとって諸科学は「インスピレーションの源」であると同時に「批判のための重要なトピック」であるという二面性を持つ。3本稿の文脈では、「良識」批判を遂行し純粋な差異を救済しようとするドゥルーズに

【目次】

1.はじめに

2.ドゥルーズによる「良識」定義、及び諸科学の知見の摂取と批判

3.同一化プロセスとしての理性、非合理なものとしての差 異

4.ドゥルーズの「良識」批判の現代的意義の見積もり

5.結論に代えて

Page 2: ドゥルーズのドゥルーズの「 「「「良識良識」」」 …...6 [` ç ' q¯ `g * R ST# fg&

3

とって、熱力学、及びそれに関する科学哲学者達の諸言説がその対象となる。 まずは、ドゥルーズが熱力学を肯定的に評価しインスピレーションを受けた側面とは何であったか。それは熱力学が「現象の充足理由」としての「非対称性・不等性・差異」の存在を示している点にある。 その前に、根本的な事柄の確認になるが、ドゥルーズにとっての「差異」とは「多様性としての所与」ではなく、この所与を産み出すものだとされる点を想起しよう。我々の経験に与えられる色や形、各々の個物の持つ各々の諸特徴、ドゥルーズが純粋な差異として掬い取りたいのはこのような「多様性」ではない。これら諸事物や諸現象を産み出すもの、通常の生活経験においては捉え難いこの次元をこそ、ドゥルーズは同一性への従属から解放された差異の領野として描き出したいのであった。「差異とは雑多なものではない。雑多なものとは所与である。しかし差異とは、それによって所与が雑多なものとして与えられるものだ。差異は現象ではなく、現象のヌーメノンに最も近い。」4 『差異と反復』以前の歩みを振り返れば、ドゥルーズがこのような純粋な差異の領野に関する着想をベルクソン等の哲学史的系譜を引き伸ばす形で得ているのは明らかであるが、ここではその裏づけ作業は措き、熱力学の諸理論への参照により、ドゥルーズの着想が重層化される点を見よう。 「全ての現れるものは差異の秩序の相関物である。レベルの、温度の、圧力の、強さの、ポテンシャルの差異。つまり強度の差異。カルノーの原理はこれをあるやり方で言うもので、キュリーの原理はこれを別様に言うものだ」5と言うドゥルーズが、熱力学の諸原理の持つ意味に関するこうした解釈を得たのは、科学哲学者L.ルジエの著作6、及び A.ラランドの著作7からだと推測される。両者はそれぞれ、特にキュリーの原理について次のように述べる。

「現象の原因となるのは、対称性ではなく環境(milieu)の非対称性である。」8 「原因の無い結果は存在しない。結果とは現象であるが、これは常に自らを生み出す為に或る種の非対称性を必要とする。この非対称性が存在しなければ、現象は不可能である。」9 特に後者のラランドの表現はキュリー本人の言葉だとされるものであり、ドゥルーズがこれらの著作から「非対称性」が「現象」の「原因」であるという着想を得ている点が確認される。10「全現象は、それを条件づける不等性を指し示す」11と言うドゥルーズの声には、幾人かの理論家の声が混じり合っている。 さて、現象を産み出す為に非対称性や不等性が真に必要となるのだろうか。ルジエによればこの問いに肯定的に答えるのは容易である。彼によると、完全に同質的な環境においては、或る変化が生じるいかなる「充足理由(raison suffisante)」も存在しない。寧ろ「対称性の原理」は現象が発生しない原因となるのである。現象の発生に非対称性が必要なことを、ルジエは以下の事例で示す。 「電流の発生の条件を整えよう。例えば酸化された水に糸で繋がれた同じような二つの鉄片を浸す。対称性の原理により、これではいかなる電流も生じない。これらの内の一つを磁化してみよう。すると非対称性が導入され、これが電流を可能とするだろう。両端が同一のスパーの結晶は、それを熱しても対称性の原理により電化しない。逆にトルマリンの結晶は、その両端が物理的に差異を持つ故に電化する。」12 注意しておくべきは、ルジエが電流の発生という特定の現象の次元において非対称性・不等性の先行性を示しているのに対し、ドゥルーズは「全現象」における非対象性・不等性の先行性を主張する点である。これについて、現象の一領域の話を包括的な存在論的主張へと恣意的に拡張することに正当性はあるかという疑問は確かに生まれる。この疑問に対しては、ドゥルーズの主張が正当化

Page 3: ドゥルーズのドゥルーズの「 「「「良識良識」」」 …...6 [` ç ' q¯ `g * R ST# fg&

4

されうるか否か、様々な現象領域で科学的知見を学びつつ検証していくという作業が一つの方向としてありうる。また、もう一つの方向としてはそもそも存在論的に非対称性や不当性の先行性を主張すること自体の価値や意義はどこにあるかと問うこともできよう。これらはドゥルーズ哲学にとって重大な問いかけではあるが、良識批判という限定的文脈でいかにドゥルーズが科学的知見からインスピレーションを受けているかを理解するという本稿のここでの文脈では措かざるをえない。 「非対称性・不等性の存在論的先行性」というインスピレーションに加え、科学史家ロニーの著作13がドゥルーズの着想に影響を与えている点を確認しておこう。 「全てのエネルギーの原理は強度である。エネルギーの量は強度の反復に他ならない。しかし全ての強度は差異に由来する。エネルギーの総体は<差異の総体>として現れる。・・強度は既に差異を表現する。・・強度は二つの同質な項からは構成されず、少なくとも異質な二つの項から構成される。故に温度やポテンシャルの差異は二つの等質なレベルの差異と比較されるものではなく、不規則なレベルの差異に比較される。それは例えば一つの山の不規則な頂上と、それに負けず不規則な麓とのレベルの差異だ。」14 ドゥルーズの読者であれば、上の文言が、恰もドゥルーズ本人の言葉ではないかと思われるほどの直接的影響を彼に与えていることが見て取れるだろう。特にここでは「エネルギー」と「強度」と「差異」とがほぼ等号で結ばれることでドゥルーズの「差異」概念に「力動的な含意」が付与されることに繋がっただろうと推測される点と、ドゥルーズ自身も強調することであるが、「差異=強度」とは「少なくとも異質な二つの項」から構成されると既定される点に留意しておこう。 以上、ルジエ、ラランド、ロニーといった諸理論家の言説がドゥルーズに与えたインスピレーションについて確認した。次に、科学がドゥルーズ

に対して持つ「批判のための重要なトピック」の側面とは「良識」批判という本稿の文脈においてどのようなものだろうか。 これについては次の二点が、ドゥルーズによる熱力学批判だと纏められる。1)熱力学(エネルギー論)は、「強度」(この文脈では「差異」と等値できる)を既に延長や質に展開されたものとしてしか捉えられない。2)熱力学は現象に「自然な方向」があることを示し、「良識」を強化してしまう。これらの点についても、実はドゥルーズはルジエから大きな影響を受けていると推測される。

1) について、ルジエは以下のように言う。 「全てのエネルギーは二つの要素、つまり強度的要素と延長的要素により特徴づけられると言われる。一つのシステムの熱エネルギーはエントロピーによる温度の産物に由来する。電気エネルギーは電気を起こす力による電気量により産み出され、気体の膨張エネルギーは体積の圧力により産み出され、重力エネルギーは錘の高さにより産み出される等々。」15 ドゥルーズの読者であれば、彼がルジエのこの表現とほぼ同じ言葉遣いをしていることを想起するだろう。16「強度的要素」と「延長的要素」の結合による各種エネルギー理解をドゥルーズはルジエから直接引き継いでいる。但しここでのドゥルーズの独自性は、熱力学(エネルギー論)がその存在を認める「強度的要素」(エントロピー、電気を起こす力、圧力、高さ)は、「既に一つの延長の内部に展開し様々な質に覆われてしまっている強度」でしかない故に、私達は強度を根拠薄弱で不純な概念と考えてしまうことになると彼が批判する点にある。17「純粋な差異=強度」、これに近づこうとするドゥルーズは熱力学を援用しつつも、その知見に満足することはない。

2)について。ドゥルーズは 19世紀熱力学の諸原理(カルノー、キュリー、ル・シャトリエの原理等)の一般的内容をこう表現する。「差異は、変化が消失する傾向にある限りにおいてのみ、この

Page 4: ドゥルーズのドゥルーズの「 「「「良識良識」」」 …...6 [` ç ' q¯ `g * R ST# fg&

5

変化の充足理由である。」18彼によれば、取り消されていくことによってのみ現象変化の充足理由たりえる差異=強度のおかげで、現象変化に客観的方向としての「時間の矢」が成立することになり、これが「良識=良き方向」と一致する。この点についても再びルジエの言葉が有用である。 「電流、熱流、水流、化学反応が生じる為には、環境の中にそれらの源となるような電圧、温度、高さ、化学的ポテンシャルの差異が存在せねばならない。これらは強度の高低差であり、部分的に力学的仕事へと変換されうる様々なエネルギー形式を産み出す。クラウジウスにより得意げに提出された宇宙の熱的死の仮説においては、エネルギーの全形式は熱へと変換され、全空間は熱的平衡状態となり、対称性を理由にもはやいかなる現象も可能ではなくなるだろう。人間精神にとって世界は存在することを止めるだろう。というのも、心理―生理学が教えるところによれば、私達の感官は外的世界の変容のみを感じうるからである。例えば私達の熱に対する感性は、私達の手と周囲の環境との間にある熱の消失に関する状態の変容しか教えてくれない。」19 ドゥルーズが「良識」は「本質的に終末論的」であり、「最終的な均衡と均質化の予言者」だと定義していた点を想起しよう。差異の平均化・均質化へと向かう「良識」の方向は、いわゆる「エントロピー増大の法則」に一致し、最終的に「宇宙の熱的死」へと達するものである。ドゥルーズはこの点について、本当に「宇宙の熱的死」という仮説は正しいのか、或いは「良識」の方向性は揺るぎ無いものなのか、という問いを立て論証することをしない。本稿はそこで、まずはこの「良識」の方向性の内実理解を深める為に、ドゥルーズが参照していたと思われるA.ラランドの著作に遡行しよう。 ラランドは、カルノーの原理の一般的な意味は、次の三つの命題で表現されると言う。20 ⅰ)物理的現象が自発的に向かう自然な方向(un

sens naturel)が存在する。 ⅱ)この自然な方向は、自然的或いは人工的(例: 機械)な手法で、少なくとも同等に自然な方向への変形が或る一点でなされない限りは、或る点において逆転されない。 ⅲ)自然な方向とは知覚可能な差異を小さくする方向である。特に質料に対するエネルギー配分に存する不等性を小さくするものである。 本稿の文脈からは特に、ドゥルーズの「良識=良い方向」(le bon sens)という表現がラランドの「自然な方向」(un sens naturel)と共鳴している点、及び「自然な方向」が「差異を小さくする」方向に進むと規定されている点を確認しておこう。更にラランドは、これらの命題を正当化する三つの観察的事実を挙げている。 ⅰ)諸レベルや圧力は平準化する傾向にある。「液体や気体の質料の持つ圧力は、全面的に全方向へと拡散する。・・同じ現象は固体でも生じる。」21 ⅱ)「熱は、それを自由に交換できる諸物体の間で等しくなるように配分される。この等質化は、諸物体が同じ温度と呼ばれる状態に達するまで止まることはない。」22 ⅲ)「全てのエネルギー形式は熱へと変換される傾向にある。」23 以上の諸事実からラランドは「均質化の原理は人間が発明した装置においても物理的・化学的な諸力の自由な活動においても、等しく厳密に妥当する」と述べる24。ドゥルーズが批判していたのは、このような主張によって熱力学が「良識」を強化してしまうことであった。 以上がドゥルーズにとって、科学が持つ「批判の為の重要なトピック」としての側面である。彼が様々な知的リソースを利用しつつ、「良識」概念を巡る問題系を構成していることが見やすくなったはずである。ここから私達は次の順序で検討を進めたい。まずは、ドゥルーズが科学による実在の探究という文脈に即して持っていた「同一性」と「差異」の位置づけに関するイメージに寄与し

Page 5: ドゥルーズのドゥルーズの「 「「「良識良識」」」 …...6 [` ç ' q¯ `g * R ST# fg&

6

たと見做せる諸論者の見解に遡行し、その内実を理解する。その上で、現代科学・科学哲学の諸知見を踏まえつつ、ドゥルーズが目指す「良識」批判の意義がどう評価されるかを検討しよう。

3.同一化プロセスとしての理性、非合理なも

のとしての差異 ドゥルーズによれば、19世紀における「哲学と科学と良識」との同盟は「或る種のカント主義」を含んでいた。即ち、それを構成する大きな要素は「多様性としての所与」と「同一化・平準化への傾向性としての理性」であって、多様性は自然においても理性においても縮減していくものと考えられていた。ここにあって「差異」とは「自然法則」でも「精神のカテゴリー」でもなく、多様性の単なる「起源=X」という価値しか付与されることはなかった。25「同一性」と「差異」を巡るこの状況把握をドゥルーズが得たのは、A・ラランド、E・メイエルソンの諸著作からであったと推測される。彼らの言説に遡行しつつ、その内実を検討しよう。 まず注目したいのは、ラランドとメイエルソンが共有する、「科学や人間理性の持つ、同一性へと向かう傾向」という視点である。これを示すメイエルソンの言葉を幾つか引用する。 「同一性の概念は・・全ての推論において優越する役割を果たす。」26 「数学的推論の観点から極めて本質的な同一化のプロセスはまた、物理的諸科学の推論においてもその応用を見出す。」27 「或る現象に関する全ての真の科学的説明は、結局は何らかのものや何らかの概念の不変性に依拠する。」28 「私達の科学の本質的な形式は、変化しないものによる変化するものの説明への関心により特に際立つように見える。」29 メイエルソンが、「同一性」や「不変性」・「変化しないもの」こそ、科学が実在の解明に関して持

つ武器だと考えている点は以上から明らかである。科学や人間理性に関する同様の視点をメイエルソンと共有するラランドの議論は、次のようにまとめられよう。例えば、「雪」の持つ白さは完全に「百合」や「雲」の持つ白さと同じものではない。この限りで「自然」とは本来、厳密な意味で「概念」に適合し包摂されつくすものではないはずである。しかし私達人間は、それらの異なる色調を同じ「白さ」という概念で捉え、表現する。そうすることで、「自然」は「概念」へと徐々に適合させられていく。言い換えれば、人間は自分たちが共有する「合理的要素」としての「概念」へと「自然」を取り込んでいくことで、自らの思考に相応しい固有の実在性を構成していく傾向性を持つ。ラランドによれば、科学という営みは人間が持つこの傾向性の表現であり、科学によって自然は人間の思考が描く枠組みへと無限に近づけられていく。30 絶えざる時間の流れの中で生き、絶えず一回的に出会う「個物」と交渉していく必要性のある私達人間にとり、様々なレベルで「同一性」を認識し自らの行為に活かしていくことが価値ある営みであることはいわば「生存の事実」とでも称されるべきことであって、そのこと自体の価値を云々しても仕方が無い。「科学」がこの人間の「生存の事実」を延長し洗練させたものであるというラランドの見方は理解し易いものだろう。更には、「絶対的価値は最終的結果にあるのではなく、差異から同一性への漸進的運動にあると信じることもできる」とラランドが言うように、31徐々に同一性へと実在を回収していく科学の運動自体が価値あるものだと見做す考えにも、同意する者は多いはずである。実はラランドやメイエルソンと近い着想を持っていたとドゥルーズが指摘するカミュは、こう表現している。 「どのような言葉の勝手な操作や論理の曲芸が行われていようと、理解するとは、まず何よりも統一することである。精神がもっとも進んだ運動を行っている時の、その精神自体の奥深い欲望が、

Page 6: ドゥルーズのドゥルーズの「 「「「良識良識」」」 …...6 [` ç ' q¯ `g * R ST# fg&

7

自分の宇宙を前にした時に人間の抱く無意識の感情と結局同じものになるのだ。つまりそれは親密性への欲求であり、明晰さへの本能的欲求である。」32 興味深いのは、ラランドもメイエルソンも共に、カミュの言う人間の持つ「明晰さへの本能的欲求」が完全に満たされることは無いと考える点である。換言すれば、宇宙・自然・実在が人間の理性や科学が用いる「同一性」や「同一化」という武器によっては解明し尽くされえないと両者は考える。 「実在とは・・私においても私の隣人においても・・私が実在に要求するものへと完全に従うわけではない。というのも実在とは私達の科学の素材の中で、理性にとって還元不可能で非合理で苛々させるものに留まるからだ。―間違いなく減少し続けるものではあるが、決して現実的に無に帰することのない根源的な不条理さの源。」33 「科学の真の進歩とは、私達の理性が自然を理解する仕事の中で実行するものだが、結局は必然的に自然と理性との調和の限界と様相とを固定することに存する。」34 本稿が参照するメイエルソンの著作『科学的説明について』(1921)は千頁にも及ぶ大著であり、容易にその主張を要約することはできないが、本稿に必要な範囲で彼の考えを抽出してみるとこうなる。彼によれば、科学とは「空間」により全てを説明し合理化しようとする強力な人間知性の武器であるが、それには常に「非合理なもの」が立ちはだかる。例えば数学にとっては、それが先行事実として受け入れざるをえない特定の空間構造が「非合理なもの」であり、物体とその運動により全てを説明しようとする物理学にとっては、感覚により構成されるものが「非合理なもの」となる。また、熱の現象を自然の不可逆性の典型として取り出すことで「円環としての自然」のイメージを破壊したカルノー以降の熱力学やそれが示す「エネルギーの漸進的劣化」としての自然・宇宙観にとっては、宇宙の始まりにあったと思しき低

確率のエネルギー分布状態が「非合理な所与」となる。更に、一方では原子を細かい単位に多様化しつつ他方でその多様性を消去するという形で進展しつつある物質の微細構造の探究にとっては、原子の絶対的な次元が「非合理なもの」だとされる。どれほど科学が合理化を進めようとも、それは非合理なものに付きまとわれるとメイエルソンは考えている。 「私達は完全な合理化がどこで不可能となるか、つまり私達の理性と外的な実在との調和が止むのがどこか、知っている。それは既に見出された非合理のある地点だ。しかし私達は、現存する非合理なものに新たな非合理なものがもはや付け加わることはないと決して断言することはできないのだから、私達の理性と外的な実在との調和がどこにあるかを知らないし、知ることもないだろう。それ故に私達は決して現実に自然を演繹することはできない・・。」35 科学と「非合理なもの」との関係についてのこのラランドやメイエルソンのイメージを直接的に事柄としてどう評価するかは、科学全体の目的や価値・限界といった大きな問題であり、本稿の手に余る。現在「非合理なもの」とされる「宇宙の始まり」や「物質の究極的構造」についても何らかの画期的な発見や進展が将来的に見られるかもしれず、その為に多くの科学者が日夜研究している事実は尊重すべきはずのことだし、ラランドやメイエルソンもその営みの価値の切り下げを意図しているわけではあるまい。一つ言えるのは、特にメイエルソンのように科学がいかに進展しようとも、どの時点でどのような形で新たな「非合理なもの」が現れるかはわからないと考えるか、やがては科学による実在把握が完成し「非合理なもの」の余地が無くなると考えるか、二つの見方があるが、その遥かな時間スケールを考えれば、いずれにせよそれは有限な束の間の生を生きている私達個人を中心に据える時、無意味化する選択でもあるということである。更に言えば、科学が全

Page 7: ドゥルーズのドゥルーズの「 「「「良識良識」」」 …...6 [` ç ' q¯ `g * R ST# fg&

8

てを「この私」が生きている間に解明してくれたところで、それが私個人の生や生き方に対し何を与えてくれるか、疑うこともできる。科学が「実存」に対して持つ価値に関するこの懐疑の代表者として、カミュが挙げられよう。 「この大地についての一切の知は、この世界が僕のものだと確信させてくれるようなものを何一つ僕に与えてはくれないだろう。君は僕にこの世界の姿を描き述べてくれる。世界を分類整理する術を教えてくれる。・・今や僕は理解している。なるほど僕は科学によって様々な現象を捉えそれを列挙することはできるかもしれないが、だからといって世界を把握することはできないのだということを、世界の起伏を指ですっかり辿ってみたところで、それだけ一層世界が解るようにはならぬだろう。」36 科学が「統一」への本能的欲求に駆動されていると考える点で、ドゥルーズが言うようにカミュはラランドやメイエルソンの系譜に連なるものかもしれないが、科学の限界に関する彼らのクールな分析に比べ、カミュは科学の与えてくれるものに対する幻滅をあらわにし、科学が世界を解明し尽くしてもなお残る「この私」の「不条理な実存」を焦燥感とともに直視する。結局「自殺」か「生」かの選択のぎりぎりの地点で彼はこの事態を逆手にとって「自由」の肯定へと至るわけだが、ではドゥルーズはどのような立場を取ったのだろうか。 先述のようにドゥルーズにとって科学は「インスピレーションの源」であると同時に「批判のための重要なトピック」である。例えば本稿の文脈では、現象の発生条件としての「非対称性・不等性・差異」という着想を諸科学から得ると同時に、諸科学が「強度=差異」を既に延長と質に展開されたものとしてしか捉え得ない点や、熱力学が「差異の均等化」へと向かう「良識」を強化してしまう点を批判していたのだった。「同一化プロセスとしての理性(科学)、非合理なものとしての差異」という本節のテーマが示す着想の大枠を勿論ドゥ

ルーズはラランドやメイエルソンから継承し、「哲学と科学と良識」の同盟が持つ「或る種のカント主義」と評しているわけであるが、両者のように彼は「非合理なもの」を「同一化プロセスに回収されない残余」と位置づけて事足れりとするわけではない。それでは単に差異を多様性の「起源=X」と位置づけるカント主義を超克することにはならないからだ。「実在とは差異であるが、実在の法則は思考の原理と同じように、同一化である」37とラランドの言葉を引用した上でドゥルーズは「自然法則に反したものを思考し、思考の原理に反したものを思考せねばならない」と主張する。この「思考せねばならないもの」こそ、ドゥルーズの哲学的営為の全てがそれに捧げられたとも言える「差異」であるが、次節ではその企てが「良識」批判という限定的文脈で現代の科学を踏まえどのような意義を持ちうるか、検討しよう。

4.ドゥルーズの「良識」批判の現代的意義の

見積もり 改めてドゥルーズによる「良識」の定義をまとめてみると、それは「差異の均質化へと向かう限りで差異の存在を認める、予想不可能なものから予測可能なものへ、過去から未来へ、個別から一般へ向かう方向性」であり、「本質的に終末論的」な「最終的均衡と均質化の予言者」であるとされるものだ。先述のように、ドゥルーズは 19世紀熱力学の議論及び関連する科学哲学者の言説を参照しつつこの批判対象としての「良識」概念を構成しているわけだが、現代科学の知見からはドゥルーズのこの振る舞いはどう評価できるのだろうか。 まず私達は、そもそも「熱力学」が自然科学者の視点からは私達の世界観を決定的に変えたものだと肯定的に評価される点を押さえねばならない。ノーベル化学賞受賞者で「散逸構造論」で知られるイリヤ・プリゴジンは(スタンジェールとの共著で)、熱力学は「不可逆性」概念を、つまりは「時間」を科学に導入した点において何よりも評価さ

Page 8: ドゥルーズのドゥルーズの「 「「「良識良識」」」 …...6 [` ç ' q¯ `g * R ST# fg&

9

れるべきだと言う。それ以前に支配的だったニュートン的・古典力学的世界観によれば、世界は原則的に予測可能で可逆的なものであった。 「17、18世紀に出揃った<古典科学>あるいは<ニュートン主義>と冠される観念について考えてみよう。この観念の描く世界では、少なくとも原理的には精度良く決めることのできる初期条件によって、あらゆる事象が決定される。それは、偶然が何の役割も演じない世界であった。そこでは、全ての部分はあたかも世界機械の歯車のように組み合わされていた。・・この世界観がラプラスの有名な主張を生んだ。即ち、十分なデータがあれば我々は未来を予測できるだけでなく、過去に遡ることもできるというのである。」38 これに対し、先にラランドを引用したように、熱力学は全エネルギー形式の熱への変換と漸減、それに伴う「差異」の平準化やエントロピー・無秩序の増大を示すことで、世界に「時の矢」を導入した。 「増大するエントロピーは系の自発的な時間発展に対応している。そしてエントロピーは・・・<時の矢>となる。全ての孤立系にとって、エントロピー増大の方向が未来の方向である。・・増大するエントロピーはもはや損失の同義語ではなく、今や系内部の自然の過程を表している。自然の過程とは、最終的にはエントロピー最大の状態である熱力学的<平衡>に系を導く過程である。」39 非線形科学研究の日本における第一人者である蔵本由紀氏のエントロピーについての説明を援用しよう。熱現象を統一的に理解する為にクラウジウスが 1865 年に導入したエントロピーは、それぞれのマクロ状態に応じて定まった値を持つが、マクロ状態の下で物質を構成するミクロな要素は様々な状態を取ることができる。エントロピーとは、そのミクロ状態の乱雑さを示す指標である。例えば、分子が規則正しく配列している固体状態よりも、乱雑に動き回っている液体状態の方がエントロピーはより大きい。エントロピー増大の法

則とは、ミクロ状態の乱雑さが不可避的に増大するという事実をマクロレベルで表現した法則だということになる。さて、自然界の全ての過程はエントロピーの発生を伴うので、不可逆的である。電源を切ったアイロンはやがて部屋の温度とほぼ同じ温度となるし、コーヒーに入れた砂糖はやがて全体を一様に甘くする。床に落としたテニスボールは何度かはねて静止する。放置しておいてもそれ以上変化しない落ち着いた状態が「熱平衡状態」と呼ばれるが、マクロな世界は全てこの「熱平衡」へと向かっている。40 「熱力学第二法則」について透徹した理解を示す著作を著したアトキンスの表現を借りて言い換えると、「宇宙はより確率の高い状態へと向かっている」。そもそも「熱平衡状態」においてもミクロな次元では不可視の運動が続いているわけだが、「或る熱力学的状態を実現するミクロな配置の仕方の数が多ければ多いほど、その熱力学状態の確率は高い」点を理解せねばならない。エネルギーのランダムな分散は、原則的にはいかなる状態へも到達可能であり、極めて実現確率の低い状態へも達しうる。しかしながら、最も実現確率が高いのは「エネルギーの一様な分配」の状態であり、その状態へ一度達すれば、実現確率の低い状態へと戻る確率は極めて低い。この意味で全ての現象が向かう「熱平衡状態」とは、「最も実現確率の高い状態」であり、その向きは不可逆的だと言えるのである。ワインが水に変わることや、金属の塊が突然赤く輝き出すことの確率はゼロではない。しかしそれは無視できるほど小さいとアトキンスは表現している。41 プリゴジン&スタンジェールによれば、人間は絶えず「存在と生成」の関係、「永遠と変化」の関係の問題を問うてきた。近代科学は自然変化の核心に不変で永遠の法則を見つけ時間や生成を追い払うことで人間に安心感を与えてきた。これに対し現代科学は「時間」や「複雑さ」を物理学に再導入し、私達の自然観を変貌させつつある。言い

Page 9: ドゥルーズのドゥルーズの「 「「「良識良識」」」 …...6 [` ç ' q¯ `g * R ST# fg&

10

換えれば、「不変性」や「可逆性」が支配するのはあくまでも人間の等身大のマクロな世界や実験室で構成される「閉じられた系」に過ぎず、物質の微細構造や宇宙の起源・構造、生命体の進化プロセス全体を見るならば、「時間」や「不可逆性」こそが、鍵となる概念である。42このような科学の流れを拓いたものとして 19 世紀の熱力学は評価されることとなる。 以上を現代科学の持つ基礎的認識として踏まえた上でドゥルーズの「良識」批判を見る時、何が言えるだろうか。 まずは、彼が「良識」を「本質的に終末論的」・「最終的均衡と均質化の予言者」と規定する点である。彼がこの表現で批判的に言及しているのはクラウジウスが提出し、19世紀の科学や哲学に一定の影響力を与えた「宇宙の熱的死」という着想であり、先述のようにルジエの著作からそれを学んだと推測される。また、先述したラランドによる「知覚可能な差異を小さくする方向」としての「自然な方向」という「均質化の原理」がドゥルーズに影響している点も想起すべきである。 「最終的均衡と均質化」とドゥルーズは一口に言うが、この論点についてはどのような時間尺度で考えるかを考慮に入れる必要がある。宇宙論などの極めて長期的な時間尺度で見れば、例えば著名な理論物理学者の S.ホーキングは宇宙が仮に数百億年後に収縮に転じた場合にも、エントロピー増大=無秩序増大=均質化拡大が進むのか、それとも逆のことが生じるのかといった壮大な問題を論じている。43逆に私達が今生きている人間的な世界、「低エネルギー世界」が持続する程度の時間尺度で見れば、或る程度エントロピーは増大し均質化は進んでいるが、「万華鏡のような物質的多様性」を享受し続けられると先に引用した蔵本氏は言う。44ただ、ドゥルーズが「最終的均衡と均質化」や「終末論的」という表現を用いる時に念頭にあったのは、アトキンスの次の言葉が示すような、一気に数百億年先を考えるのでもなく、目の

前に展開される世界について語るのでもない、或る程度の長さを持つ(それにしても一個人の人生や人類の生存自体と比べると圧倒的に長いのかもしれない)時間尺度の世界イメージだろう。 「エネルギーはいたるところで分散しており、世界は崩壊のかたまりと言えよう。だが分散は特定の方向にしか進まず、その上、あちらこちらで互いに絡まりあって分散しているので、世界ができた途端に猛烈な破壊が起きるのではなく、世界はゆっくりと解きほぐされていくように崩壊していく。そのほぐれていく途中で、ところどころに構造が現れる。それらの構造はみな一時的なものではあるが、なかには 100 万年も続くものもある。・・根底にはただ崩壊があるのみで、カオスが食い止めようのない波となって押し寄せてきている。カオスになることは何も目的などではなく、あるのは、カオス状態に向かう方向だけである。宇宙の内部を奥深く冷静に見つめると、このような何とも物寂しい真理が見えてくるが、これこそ私達が受け入れなければならない現実なのである。」45 ドゥルーズが「エントロピー増大は錯覚」だと証明しようとしたレオン・セルムを肯定的に評価する箇所も『差異と反復』には確かにあるのだが、やはり「エントロピー増大」は事実である。極めて長い尺度で見る場合に宇宙全体がいかなる状態変化を経ていくか、最終的結論は出ていないが、「人間並み」の時間尺度で見る場合、現代科学においても「エントロピー増大=無秩序増大=均質化の高まり」という時間の流れの持つ方向性は肯定されており、「本質的に終末論的」で「最終的均衡と均質化の予言者」である「良識」というドゥルーズの構成した概念は、実在の流れを捉えている、根拠ある概念だと言えるだろう。 以上、古典力学を基礎とする世界観からの脱却をもたらし、時間の不可逆性を示すことで現代科学の端緒となった熱力学が科学者からは肯定的に評価されるものである点、及びドゥルーズが「良

Page 10: ドゥルーズのドゥルーズの「 「「「良識良識」」」 …...6 [` ç ' q¯ `g * R ST# fg&

11

識」の名で名指す事態が現代科学においても(時間尺度によりその意味付けは異なるが)基本的には認められている点を確認した。その上で私達が考察すべきは、ドゥルーズがどのような意味で「良識」を批判しているか、である。 ドゥルーズは、「良識」は差異の存在を認めないのではなく、均質化されていく限りにおいて差異の存在を認めるものだとする。これは、差異自身にも「延長と質の中へと消え去る」傾向がある故に生じる、或る意味では必然的な錯覚でもあると言う。しかし彼によれば、良識が行う差異の「良い配分」の下には「アナーキーな差異の配分」が伏在しており、差異は一方で延長や質に展開されつつも、他方で「巻き込まれたまま存在し続ける」。この「巻き込まれたままの差異の存在様態」を数学的・心理学的・生物学的などの様々な角度から論証しようとするのが『差異と反復』第 5 章全体の大きな狙いの一つだとも表現できる。それを通して彼は、「良識」では「差異」を理解するには不十分である点を示そうとするとも言える。 振り返れば、ドゥルーズに幾多の知見と影響を与えたと思われるラランドやメイエルソンは、科学という「同一化」プロセスは限りなく「不合理なもの」・「割り切れないもの」を合理的なものや同一性へと還元し続け、理性の枠組みを広げていくが、やはり「不合理なもの」がその先に留まるだろうと述べることで、理性では完全に汲み尽くしえない「差異」や「不合理なもの」の存在を擁護したと言える。また、現代科学になお課題として残る「宇宙の起源」の問題や、「時間の不可逆性の起源」の問題を思えば、彼らの実在や科学に関する理解にも今なお妥当性があると判断できる。 これらと比べると、ドゥルーズが「差異」を擁護する為に採る道は、より積極的な道である。彼は「自然法則に反するもの、思考の法則に反するものを思考せねばならない」と述べ、経験科学と自然法則を超えた領野の探究を「超越論的探究」と名づける。私達は、その正当性や条件、学知と

しての存在意義などに目配りしつつ、特に「巻き込まれたままの差異」がいかなる存在論的・認識論的対象であり、いかにそれが定義され、認識され、生きられるものであるかをドゥルーズの錯綜した記述を解きほぐしつつ、解明せねばならない。それがドゥルーズの「超越論的探究」の内実を理解することともなろう。しかしそれは本稿の守備範囲を大きく超えている。本稿では最後に次の二点のみを指摘し、結論に代えておこう。

5.結論に代えて 第一点は、ドゥルーズの「良識」批判の不十分さの指摘ということになるが、彼が「劣化という経験則は何も説明しない」と述べる点についてである。先述のように、現代科学においてもやはり「熱力学第二法則=エントロピー増大の法則」は有効であり、宇宙全体の無秩序性は増大しつつあるという認識が科学者の大勢を占めている。ドゥルーズが「劣化」というのは全てのエネルギー形態が最終的には使用不可能な熱エネルギーへと転換していく様を言っており、一面では正しいのだが、他方で私達としては先に挙げたプリゴジン&スタンジェールによる「散逸構造」や「非平衡開放系」の構造の探究など、宇宙のエネルギーの「劣化」にも拘らず、そのプロセスの只中で「秩序」や「構造」が或る程度長期間にわたって持続する仕組みを解明しようとする動きが活発化している点を忘れるわけにはいかない。プリゴジン&スタンジェールの卓抜な表現を借りれば、かつては「カルノーとダーウィンとの調停」が問題となったが、今はそうではない。46次の言葉はこの科学の傾向を表すものだ。 「エントロピーの生成を促し、構造や運動の消失へ向かわせるこの駆動力が、同時に構造や運動を生み出す力なのです。」47 「振り子時計はエネルギー変換の過程で生成するエントロピーをエネルギーとともに外部世界に排出し続けています。従ってそれはダイナミック

Page 11: ドゥルーズのドゥルーズの「 「「「良識良識」」」 …...6 [` ç ' q¯ `g * R ST# fg&

12

な釣り合いによって安定した状態にあります。それは外部世界に開かれており、かつ熱平衡状態から引き離された状態にあります。このようなシステムを非平衡開放系と呼びます。」48 「主要な結論の一つに到達した。全てのレベルにおいて、巨視的物理学のレベルであろうと、ゆらぎのレベルや微視的レベルであろうと、非平衡が秩序の源である。非平衡が<混沌から秩序>を生み出す。」49 第二点は、今後の問いの提起ということになるが、上述の現代科学の傾向と照合する場合に、ドゥルーズの「超越論的探究」の言説がいかなる意義を持つものなのか吟味する必要がある点である。ドゥルーズは「良識」批判に続く箇所で、何も説明しない「劣化という経験法則」とは「別次元」に属するものとして、「巻き込まれたままの差異」の存在様態を示す「一つのシステムにおける包み込みの中心」や「個体化」の議論を展開する。彼のこの「超越論的探究」に関して、一方でドゥルーズの知的源泉へと遡行しつつ内在的な解明を施すと同時に、他方で散逸構造論などの現代科学の知見を参照しつつ、その意義を検討する必要があるだろう。

1 Gilles Deleuze(1968),“Différence et repetition”,P.U.F.,p.289(以下 DR) 2 ジェームズ・ウィリアムズのようにこれを「カオスから秩序へ」と表現して良いかについては現時点では留保する。「カオス」という概念に関する現代科学の理解を踏まえねば次のような表現は空語になる可能性が高いのではないかと考える。「ドゥルーズは、私達が説明というものを、同一性を欠いた何らかのものとしての差異から良く秩序づけられた多様性へと進むことと考えることに慣れた時、私達は時間をカオス的な差異の<悪い>状態から秩序づけられた<良い>状態へという方向で考えるようになる。」(James Williams〔2003〕, “gilles deleuze’s difference and repetition”p.169)(以下Williams2003) 3 Williams2003,p.168 4 DR,p.286 5 DR,p.286 6 Louis Rougier(1922),“En marge de Curie,de Carnot et d’Einstein”Ed.Chiron,(以下

Rougier1922) 7 André Lalande(1930),“ Les illusions evolutionists”,(以下 Lalande1930) 8 Rougier1922,p.32 9 Lalande1930,p.43 10 補足すれば、「非対称性が現象の<充足理由>(la raison suffisant)である」という表現を恐らくドゥルーズはラランドから借用している。ラランドはキュリーの原理の哲学的射程の大きさを評価し次のように述べている。「(キュリーの原理は)非対称性(恐らくこれは一般的に多様性と言える)が、物理的自然において変化の充足理由であることを示すものだ。そしてこの変化が多様性を消失させうる時、逆に対称性(より一般には同一性)が静止性の充足理由となるのだ。」(Lalande1930,p.44) 11 DR.p.286 12 Rougier1922,p.32-33 13 J.H.Rosny(1922), “Les sciences et le pluralisme” (以下 Rosny1922) 14 Rosny1922,p.67 15 Rougier1922,p.31 16「エネルギー論は一つのエネルギーを強度的なものと延長的なものという二つの要素の結合により定義した。(例えば、直線エネルギーは力と長さ、表面エネルギーは表面張力と表層、体積エネルギーは圧力と体積、重力は高さと重さ、熱エネルギーは温度とエントロピー・・。)」(DR,p.287) 17 DR,p.288 18 DR,p.288 19 Rougier1922,p.34 20 Lalande1930,p.29-30 21 Lalande1930,p.30 22 Lalande1930,p.30 23 Lalande1930,p.34 24 Lalande1930,p.36 25 DR,p.288-289 26 Émile Meyerson(1927),“De l’explication dans les sciences”,Éditions Payot, p.170(以下Meyerson1927) 27 Meyerson1927,p.194 28 Meyerson1927,p.199 29 Meyerson1927,p.219 30A.Lalande(1899) ,“La Dissolution opposée à l’évolution dans les sciences physiques et morales”メイエルソンによる引用箇所(Meyerson1921,p.814-815)の再構成。(以下Lalande1899) 31 Lalande(1955),“Valeur de la difference”,“Revue philosophique de la France et de l’étranger”,P.U.F, 所収,p.138

Page 12: ドゥルーズのドゥルーズの「 「「「良識良識」」」 …...6 [` ç ' q¯ `g * R ST# fg&

13

32カミュ『シーシュポスの神話』(清水徹訳),新潮文庫,1969,p.30(以下『シーシュポス』) 33 Lalande1899 34 Meyerson1921,p.731 35 Meyerson1921,p.285-286 36 『シーシュポス』p.33-34 37 DR,p.292 38 I・プリゴジン&I・スタンジェール『混沌からの秩序』(伏見康治・伏見譲・松枝秀明訳),みすず書房,1987,p.4(以下プリゴジン&スタンジェール) 39 同上,p.177 40蔵本由紀(2007),『非線形科学』,集英社,p.29-32(以下、蔵本 2007)また、 P.アトキンスはこう言う。「宇宙のエントロピー増大が自然な変化の道標であり、このエントロピー増大は、低い温度で蓄積されるエネルギーに対応するのと同様に、<変化の自然な方向というのは、エネルギーの価値を低減させるような方向なのである>。森羅万象の自然な過程は、エネルギーの価値が退化する方向に進行するのである。」P.W.アトキンス『エントロピーと秩序 熱力学第二法則への招待』(米沢富美子/森弘之訳),日経サイエンス社,1992,p.53 (以下アトキンス) 41 アトキンス,p.97-100 42 「今日、物理科学の概念の再構築が行われている。物理科学の対象は決定論的で可逆な過程から、確率論的で不可逆な過程に移りつつある。」(プリゴジン&スタンジェール,p.242)「不可逆性が自然の中で重要な働きをし、ほとんどの自己組織化過程の根源にあり、幻想などとは全くかけ離れていることが発見された。我々の住む世界では、不可逆性と乱雑性こそが通例であり、可逆性や決定論は、限定された単純な場合にしか適用されないことがわかった。」(プリゴジン&スタンジェール,p.42) 43 S.ホーキング『宇宙の始まりと終わり-私たちの未来』(向井国昭・倉田真木訳),青志社,2008,p148-161 44 「私達を取り囲む低エネルギー世界では、たとえエントロピーは増えきっても、万華鏡のような物質的多様性を享受できるのです。」(蔵本2007,p.37) 45 アトキンス,p.275-276 46 「我々を一世紀以上も悩ませた疑問がある。生物進化は熱力学で記述された、あくまでも無秩序性が増える世界で、どんな意味を持つのか。平衡に向かう熱力学的時間と、増大する複雑性へ向かう進化が起こっている時間とはどういう関係にあるのか。」(プリゴジン&スタンジェー

ル,p.188-189) 47 蔵本 2007,p.34 48 蔵本 2007,p.48 49 プリゴジン&スタンジェール,p.369-370