新軍事件 : 山西省における抗日闘争の転換点 url …...(65) 新 軍 事 件 根 拠...

17
Hitotsubashi University Repository Title � : Author(s) �, Citation �, 75(5): 545-560 Issue Date 1976-05-01 Type Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/11727 Right

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Hitotsubashi University Repository

Title 新軍事件 : 山西省における抗日闘争の転換点

Author(s) 内田, 知行

Citation 一橋論叢, 75(5): 545-560

Issue Date 1976-05-01

Type Departmental Bulletin Paper

Text Version publisher

URL http://doi.org/10.15057/11727

Right

1--

西

省に

ける

抗日

闘争の

転換点

-

( 6 3 ) 新 軍 事 件

はドレ

年九

月、

西

戦が

始め

られ

時、

閻錫

山の

軍政

面に

権力

ゆる

ない

もの

うに

た。

万を

超す

力を

擁する

西

軍が

省内の

都市に

配備さ

た。

が、

投入

した

鎮の

陣地が

初め

突破さ

と、

山西

軍の

戦意

欲は

速に

失わ

た。

は、

敵軍兵

器の

優秀

まの

あた

時陣地

戦以

外の

戦法を

知ら

ず、

確固

たる

想を

たぬ

軍隊が

陥る

弊で

あっ

た。

入る

と、

前年

原占

領の

ちび

息つ

軍は

新た

西

南部作戦を

始し

た。

で、

省都を

臨扮に

寓居を

閻錫山

は、

末同地

払い

らに

南方へ

落ちの

儀な

くさ

た。

末い

省南部の

要都市

ど日

軍の

中に

入っ

まっ

た。

結果

閻錫山

頂点と

する

山西

省の

行政

権カは

完膚な

きま

打撃を

うけた

けで

あっ

た。

が、

落は

西

抗日

勢力の

滅を

意味して

なか

た。

前年九

来、

徳魔

下の

路軍三

後方で

遊撃戦や

動戦を

展開

して

し、

闇錫

持ち

駒が

とつ

あっ

た。

犠牲救国

(

下、

犠盟

会)

る。

犠盟

会は

闇錫

総会長と

して

年九

月に

発足し

た、

統一

戦線形

式の

衆組織で

橋論叢 第 七 十 五 巻 第 五 号 ( 6 4 )

あっ

た。

抗戦後の

犠盟

会の

動に

しい

もの

た。

軍の

侵攻に

遭遇

来の

構が

崩壊し

たの

ち、

被陥落地

域に

抗日

行政

建した

犠盟

会で

り、

省陥

落の

頃に

省内

〇五

県の

前後

犠盟

糸遊撃県

長の

指導す

とこ

なっ

た。

会は

また

青年抗

敵決死

隊・

武装

自衛隊

年先

鋒隊

どの

軍隊を

建設

しっ

あっ

た。

犠盟会

下の

部隊と

続範亭を主

任と

する

戦地

総動員委員会指揮下

保安

第二

支隊

(

暫編

第一

師)

とを

して

西

新軍+

言い

聞直

系の

西

軍か

した

らに

犠盟

会は

衆(

農民

層)

織化に

した

農民

救国

会に

と、

年二

末まで

点救数九三

(

く)

会員総数

七二

名を

が、

組織工

作に

犠盟

会の

貢献は

衆目の

とこ

ろで

あっ

た。

犠盟

会は

救の

も、

青年救

会・

婦女

救国

会・

(

1)

国会など

抗日

衆団

省内

地に

組織した

犠盟

会は

省陥

落以

降も

西の

抗日

戦線の

なか

位置を

占め

が、

行し

闇錫山との

尖鋭な

盾が

成さ

く。

盾は

年一

月、

新軍

事件+

して

爆発する

省西

南部

西北

部・

東南

部に

動する

犠盟

会指導下の

革各

軍が

西

軍の

撃に

抗し

て一

斉に

路軍の

列へ

流し

事件で

ある

は、

省陥

落か

事件勃

発まで

時期

犠盟会

ぐる

西の

抗日

戦線の

方は

どの

もの

か。

犠盟

会と

聞と

あい

盾とは

なも

あっ

か。

た、

爆発

した

盾は

うな

形で

揚さ

れ、

事件以

後の

抗日

争に

した

うか

本稿で

上の

考え

(

2)

い。

(

1)

拙稿

犠牲救

史序論

-抗日

戦争初

期に

西

省の

統一

戦線と

動員+

史』

第六

号、

九七

年八

月、

参照

(

2)

なお

稿は

前記

稿の

続編

して

図を

もっ

筆さ

た。

参照

して

けれ

幸い

る。

年春

軍は

西南

部作戦を

し、

軍を

西か

撤兵さ

た。

頃に

なる

と、

省内の

遊撃地

抗日

段階が

到来しっ

あっ

た。

すな

ち、

抗日

( 6 5 ) 新 軍 事 件

根拠地の

成で

る。

ず一

旬、

省東北

部を

含む

(

西)

察(

ル)

糞(

北)

府が

立し

月に

省東南部で

根拠地

建設の

気運が

高まっ

た。

は、

根拠地の

営に

犠盟

会は

位置

占め

なっ

うか

西

東北

部・

西南

部・

省西

部に

晋察巽辺

区は

路革

副師

長南栄

藻・

犠盟■

会幹

部宋郡

らが

蒋介石

閣錫山の

許可をへ

樹立し

府で

ある

月、

西

省境に

省阜平で

会が

開か

時、

府の

最高権力

関と

して

名か

なる

臨時

行政

委員会が

発足した

構成

区に

ける

統一

戦線の

象徴し

た。

名の

員中

国民

党を

代表

者は

名(

劉臭基)

共産

党か

(

斎栄

藻、

孫志

遠)

犠盟

会か

名(

宋那

文、

李木…

庸、

婁凝先)

あっ

た。

残り

中、

張蘇は

産主

義青

年団の

経歴が

あっ

が、

時は

省蔚県

長と

して

国民

党貝胡仁杢

長と

府に

参画

して

た。

東北

身の

挽は

東北

兵と

造っ

河北

抗日

衛軍の

揮官で

あっ

た。

また

党代

劉莫基の

言に

ば、

産主

義者の

響力が

大きい

はっ

が、

(

辺区)

政府

も、

県の

産党の

ちは

疑い

派に

まっ

(

1)

る+

うこ

とで

あっ

た。

ら、

党は

前年

月に

軍の

事力

礎に

して

晋察糞軍区

(

令、

帝栄

藻)

設立

し、

区の

軍権をが

ちり

掌握

して

しろ

権は

犠盟

会に

表さ

統一

戦線勢力が

担っ

(

行政

委主

席は

文)

換言

ば、

区で

産党は

自らが

前面に

立っ

事を

く、

犠盟

会と

閣錫山の

御墨付+

得た

織を

媒介と

して

区を

営して

う。

省東南地

区で

は、

月、

同地

区に

する

軍の

掃討

作戦を

軍一

師が

撃退す

と、

第三

行政

(

2)

貝と

して

抗日

政の

指導に

たっ

会の

波・

戎伍勝

は、

路軍の

援助

県政

機構

改造工

着手

(

事笑も

権を

担う

犠盟

会・

軍権を

う八

軍の

組み

唆して

深い)

造は

各県に

行政

議を

立し

行政

議の

軍隊を

軍政

委員会+

置し

臨時

(

3)

的上

級政

権の

担わ

とか

始め

た。

54 7

一 橋論叢 第 七 十 五 巻 第 五 号 ( 66 )

晋察巽辺

区で

省東

南地

も、

行政

議は

府に

衆動

員・

指導

府に

する

衆の

判・

張を

果的

する

要な

段で

あっ

た。

晋察巽辺

場合

間(

県で

半月

は一

月)

に一

県ない

行政

議が

開か

れ、

長や

辺区

行政

出席し

間の

府工

作を

報告する

方、

各大

体は

議の

催前に

自己の

組織系統を

通じ

て、

府工

作に

各団

外の

衆の

判や

意見を

結集

(

1)

る+

行政

会議は

階層

なる

統一

現す

意機関で

あっ

た。

省東

南地

区の

資料に

と、

会議で

長・

犠盟

員・

張公

長が

務委員と

り、

長が

議の

席を

た。

子は

各種大

衆団

体か

らの

代表と

挙に

代表

との

種類あっ

た。

前者に

は、

農救よ

名、

犠盟会

団・

救・

救・

麻救

員救国

会よ

各々

遣し

後者に

は、

各区

表三

名(

人口

多い

区は

名)

出した

紳代

表+

主ブ

層よ

名の

参加が

(

5)

られ

た。

会議に

も、

行政府の

場合と

様、

犠盟

会の

越的

指導

性が

証さ

た。

とい

うの

は、

団は

名目

犠盟

会と

並ぶ

指導的

組織で

あっ

が、

実に

抗戦以

有名

無実

存在と

化し

り、

(

6)

長の

多くは

犠盟

員で

あっ

らで

る。

た、

外の

衆団

犠盟

会ない

軍に

抗戦後敵城

だっ

たか

らで

る。

で、

権を

する

路軍と

犠盟

会は

抗日

根拠地の

最有力

織た

た。

西

西北

部の

場合

議に

類似す

能を

果た

して

戦地

捻動

員委

員会で

あっ

た。

は、

年九

月、

闇錫

山の

発令に

閣の

参謀綻範亭を

任と

成立

し、

兵の

動員

衛隊の

組織化

(

7)

塩抹

輸・

傷病兵

護送

諜工

作な

どを

務と

た。

構成

子は

県政

府・

犠盟

会・

道団

他の

(

8)

衆団

体・

路軍

等駐屯

軍代

表者らで

あっ

た。

戦地

動員

委員会は

県政

裁を

ず、

同地

域に

適切

根拠地

樹立

する

年に

は、

単な

意機関

とい

うよ

しろ

半政

織で

あっ

た。

織に

犠盟

会が

他の

(

9)

体に

まさ

指導性を

して

想像に

難くない

以上の

うに

犠盟

会は

根拠地

治の

なめ

あっ

( 6 7 ) 新 軍 事 件

とい

う。

して

犠盟

会は

権を

統轄し

行政会

戦地

員委員会を

導する

て、

らの

衆エ

衆運

動に

具象化さ

せ、

よっ

抗日

政府

強化

をめ

して

る。

うな

犠盟

会の

姿勢は

合理

負担+

財政

策に

よっ

うこ

とが

る。

ば、

犠盟

幹部で

晋察巽辺

府主

席で

ある

は、

負担+

行の

次の

うな

法と

則と

提起

る。

法と

して

(

)

衆を

動し

て、

県政

負担の

化』

執行を

請求

し、

財産十

万元

以上の

者を

特等戸と

し、

等戸の

負担と

戸の

に、

相当の

開き

設けて

以て

割当の

理を

免れ

る。

(

二)

特等

戸の

灘款〔

割当

金〕

負担総数を

分の

十、

戸の

負担を

分の

する

(

三)

県に

戸の

特別

負担

数額と

村負担数

額は

村々

大会に

討論決

する

我々

は、

累進率を

る。

総財産額を

以て

算し

単なる

以て

算し

ない

貧窮者は

律に

免除

する

則に

拠し

(

1 0)

負担の

行せ

ない+

宋郡

で、

累進制に

等戸+

らは

額の

寄付

(

実に

税金)

割当

行ない

貧民

は一

律免

除する

うに

衆を

発動し

府に

執行をせ

まる

張し

る。

宋の

見解を

閣錫山の

負担+

較し

ば、

性は

明ら

る。

閣は

年八

末(

ない

初)

省政

義に

山西

各村

合理

法+

布し

た。

負担

法+

利銭を

得る

負担を

し、

財産

負担

多く

し、

腋銭多き

また

負担を

多く

す+

規定

して

もの

の、

たっ

た一

累進率+

字句

なか

めに

負担

なも

かっ

た。

実に

は、

畝の

耕地

所有す

人は

出し

畝の

人は

分の

出す

は一

元を

出し

(

1 1)

人は

角を

出す+

とい

物で

あっ

た。

は、

犠盟会の

合理

負担+

どの

うに

衆エ

ネル

動に

結晶さ

うか

合理

負担+

衆運

動を

誘導し

革を

現さ

例と

て、

年の

和服県

とが

る。

省東南部

順県で

は、

本軍に

る一

時的な

領が

月に

と、

ぐさ

戻っ

部隊が

犠盟

会工

9

協同で

格的大

衆動

員に

着手

した

彼らは

ず、

時期

一 棟論 叢 第 七 十 五 巻 第 五 号 ( 6 8 )

ちょ

麦及

穀の

刈入

前に

控へ

絶好

機+

あっ

利用

報酬で

農民の

刈入

作業を

援助

た。

らに

刈入

完了

後、

民の

納税及

料の

納入

を一

停止せ

減息

伝を

し、

更に

的ス

族救亡

抗戦に

者は

出せ

者は

金を

出せ』

用し

て、

青年層に

抗戦政

策の

純理

性よ

滅租減

息を

伝し

貧農

衆に

的利

観念に

併せ

救国

抗戦に

量按分

負担の

附して

衆の

絶対

持を

得、

数の

富農に

反対

動は

り、

声さ

出さ

ない

様に

衆の

力を

以て

完全

服せ

しめ

た。

更に

闇錫山

時代に

布せ

負担に

け、

富農富

戸に

累進賦

課を

貧農

済し

戦財源を

出さ

様に

伝し

此の

伝と

衆団

体の

紙拡

大化

伴び

権の

掌握に

進ん

だ+

ち、

衆運

動の

りに

よっ

闇錫山

系県

長の

帆に

度の

赤色

策の

執行を

迫っ

た+

る。

顕著

ほ、

月、

抗戦期の

負担と

して

富戸に

緊急

費と

して

借款に

名を

語り

し、

若し

軍用

購に

応ぜ

ざれ

ば、

衆団体

漢紆的

為と

物品を

ず社

的制

裁を

加へ

等+

置を

迫っ

り、

よっ

張雨

帆を

辞職に

追い

込ん

だ。

続い

後任

長も

月、

産党貝と

偽県

長の

肇祥と

迭+

れ、

県政

革は

応の

(

1 2)

た。

段階的

高度の

色行政

策+

実現

犠盟

会の

農民

階級路

線の

利、

閣錫山の

路線の

敗北

意味して

た。

前者の

利は

閣の

盤の

消滅で

ない

して

も、

確実な

制限で

あっ

た。

闇の

官許政治

団体

しか

省内の

最有

力政

体は

拠地

遊撃区

勤労

民の

性を

表す

とに

よっ

着実に

聞か

自立

しっ

あっ

た。

うと

しい

存在に

あっ

た。

上が

年春

降進行中

あっ

犠盟

会を

抗日

線の

姿で

あっ

た。

(

1)

上、

井三

北の

抗日

統一

-晋

巽辺

軍政

ぐっ

て+

史評

論』

号、

九七二

年一

月、

七六

-七

(

2)

貝制

は、

年秋

を七

区に

分け

置さ

行政

区+

を三

初め

組し

もの

稿、

-七

参照

(

3)

斉武

命根

据地

長』

社、

九五

年、

-四

( 6 9 ) 新 軍 事 件

(

4)

抗観

中的

治』

安・

華書

店、

年、

四五

(

5)

右、

(

6)

掲拙

稿、

(

7)

満鉄

調査

調

告』

三一

房、

年、

(

8)

右、

(

9)

稿、

七一

(

1 0)

刈屋

久太

訳編

員村

済の

向』

社、

年、

(

1 1)

右、

-五

(

1 2)

撫班

抗日

政』

年、

-五

頁(

陸海

係文

書マ

イク

所収)

閣錫

山は

上の

どの

うに

受け

うか

聞の

安の

候は

くも

晋察巽辺区

成立の

月に

られ

る。

年二

月一

日、

闇は

臨扮

裏陵で

議を

宰し

が、

彼は

店休業中の

革命同

(

1)

会+

足さ

た。

意図は

腹心の

部下た

ちを

自己の

辺に

結束さ

歩き+

する

しれ

犠盟

勢力

うと

する

あっ

察せ

る。

が、

時に

彼の

まだ

的で

かっ

た。

闇が

確に

した

は、

開か

高級

幹部会

議の

席上

あっ

た。

羅貴波に

ば、

会議で

閣は

次の

うに

述べ

う。

抗戦以

晋接写は

すっ

失し

まっ

が、

減少せ

ず増加

して

る。

会』

隊』

路革と

作し

る。

今後我々

どこ

(

2)

すべ

地が

うか+

と。

時閣は

聞直

系の

西

軍〕

拡充に

命と

り、

他方

軍に

援か

限に

り、

会』

消そ

う、

会』

犠盟

会』

取っ

(

3)

う空

気を

成し

た+

う。

月、

聞は

県に

幹部

議を

集し

た。

単な

犠盟

会ム

醸成

で、

られ

た。

議の

果、

個の

導師に

し、

武装

衛隊

遊撃隊

衛隊

組して

同氏の

直接管理

た。

た、

府の

令に

抗敵自

衛団

規則と

施弁

とを

一.

頒布

し、

自衛

を〕

せ、

犠盟

橋 論叢 第 七 十 五 巻 第 五 号 ( 7 0 )

下の

農救

救・

救・

等組織を

する

(

4)

県に

令し

た+

時、

すで

決死

隊の

隊は

部隊と

軍関

係を

すん

た。

決死

縦隊は

東南

部の

岳太

行の

岳地

区で

師と

隊は

西

区で

晋酉支

隊と

縦隊は

南部の

岳山中

軍晋

漁辺区

遊撃支

隊と

四縦

隊は

省西北

で一

(

5)

師と

各々

協同

作戦を

なっ

た。

結局

決死

隊を

路軍か

ら切

導師と

自己の

視下に

うと

図は

敗した

党例文

書は

由を

決死隊の

各部

隊は

散駐

して

り、

集中が

ずか

く、

産党式の

委員制

度が

依然と

して

存在し

り、

軍』

立の

指揮

統を

成立

(

6)

た+

して

る。

が、

由は

決死

隊に

抗日

民の

信頼と

持が

寄せ

あっ

た。

闇の

第一

波攻

勢は

ずは

撃退

た。

年春

根拠地の

衆運

動は

闇の

害に

ず確実に

歩前進を

た。

東南

部の

拠地で

は、

来分

動し

各大

衆団

体が

統一

指導部を

次々

結成

した

ず二

月七

救総会が

し、

月八

麻激論

会が

会員七

万を

擁する

畠救糸会

が、

救総会が

順次

成立

た。

して

月二

彪-h

J

は、

らの

衆団

体を

統一

指導す

晋東南各

(

7)

界救

連合

会+

結成さ

た。

察責辺

区で

も、

衆運

動の

前進が

られ

た。

ば、

前年三

月工

救・

(

8)

救と

足して

救が

年五

月中

旬、

第二

辺区

表大

会を

た。

後の

民運

(

9)

動方

針を

詳細に

規定

綱領が

新た

採択さ

た。

うに

根拠地

民の

軍や

犠盟会の

擁護の

下で

衆運

動の

長と

して

層の

高揚を

た。

言っ

ばこ

は、

合理

負担+

象徴

うな

統一

戦線

礎と

した

勤労人民

線の

もの

あっ

た。

が、

闇錫山に

流を

容認す

なかっ

た。

ら、

順県の

例で

うに

民の

閻の

権力を

再興

能と

あっ

らで

ある

東南部で

衆の

統一

カを

しっ

あっ

ちょ

頃、

闇錫山

犠盟

会に

険な

撃を

しか

けて

た。

月、

駅西

省宜

県の

鎮で

催さ

高級幹部

会議

ある

議の

模様

党例

書は

次の

( 7 1 ) 新 軍 事 件

うに

らか

して

る。

閣錫山が

議を

する

と、

犠盟を

烈に

た。

闇氏の

犠盟

抑制意

思も

較的

強固で

あっ

た。

結果

来よ

存在

命同

会を

強化し

閣が

自ら

長に

じ、

人物に

高級

幹部の

多数を

担当

う決

定し

た。

らに

犠公』

犠盟

協議機関〕

会の

郭組織に

確定し

た。

閣は

犠盟会に

発展を

停止

する

指示

し、

各行政

督察

員の

権力を

縮小

し、

長の

自由な

命派

遣を

禁じ

区の

令に

規軍の

連隊

長か

抜任命して

隊の

指揮

練の

責任

負わ

せ、

各専員の

権を

減少

た。

軍を

教導

軍に

編する

か、

るい

安隊に

し、

導軍は

閣自身が

総司

令に

じ、

令に

愛源を

任じ

て、

個旅団計三

個連隊を

管轄する

した

決死

隊は

立一

旅に

隊は

立二

旅・

九六

旅に

隊は

立三

旅・

九七

旅に

立七

旅・

〇三

旅に

衛隊は

九・

二一

二一

二一

など

旅団に

衛隊と

(

1 0)

部の

撃隊ほ

二一

旅に

編さ

た+

闇は

時、

議に

席し

軍の

委員を

軟禁し

やっ

導+

した

図っ

昇進

昇給をエ

(

])

買収しょ

うとい

うこ

た。

軍改

編の

決定は

なが

犠盟

会の

激しい

抗議を

うける

とに

なっ

た。

もっ

も、

犠盟会が

発表し

議声明

閣そ

指し

する

け、

もっ

側近の

靖国

陳長

捷を

頑固分

子+

合法

漢紆+

して

(

1 2)

とい

う。

勿論こ

統一

戦線に

する

策的配

慮で

あっ

た。

らに

月二

日、

林鎮会議の

決定に

力を

得た

革命同

会は

拡大

幹部

議を

た。

会議で

は、

会を

第二

戦区

軍政

民運

動の

統一

指導組織と

して

確定

と、

同志

指導

下の

織と

して

革命青

年団を

郭団体

して

犠公+

を、

して

貞救

救・

青救

救・

児救を

各々

確定

する

(

13)

等が

決定さ

た。

は、

犠盟

会が

他の

衆団

体に

して

もっ

位を

奪取し

よっ

自立

衆運

動を

しょ

うと

う企て

を、

露骨に

現わ

して

た。

し、

回の

闇錫山や

同志

会の

動も

効果

疑わ

しい

隊の

編を

断行しょ

うに

J

も、

闇の

権力の

礎で

西

主力

ほ、

との

一 橋論叢 第 七 十 五 巻 第 五 号 ( 7 2 )

戦を

ける

うに

して

西

部の

後方

区に

駐屯

して

らで

ある

方、

新軍の

多くは

後方

域で

撃活

動に

挺身し

り、

彼ら

は一

片の

指令に

揺す

部隊で

かっ

た。

時の

側文

献の

見る

ろに

ば、

南地

区に

する

角、

区に

於ける

軍に

軍の

統制権は

なか

た。

新軍内に

於け

晋軍

系の

人は

軍内で

立し

め、

体を

動か

すこ

とが

出来なか

た。

新軍の

指導

権を

掌握し

犠盟会

員を

除外

して

如何

編も

(

叫)

能で

あっ

た+

闇錫山

は、

らに

胆な

手を

打っ

た。

政治

制と

発足し

行の

督察専貝制の

上に

省政

府弁

事処を

置す

とに

り、

犠盟

系専員の

権を

骨ぬ

うと

たの

る。

闇は

省を

個の

遊撃区に

分し

各々

弁事処を

置い

た。

各遊

撃区に

指揮

命し

総指揮が

事処主

し、

遊撃

体の

権を

統帥する

とに

なっ

た。

閻は

に、

犠盟

幹部が

掌握

する

個の

貝公

-薄

波の

第三

区、

戎伍勝の

第五

区、

張文

昂の

第六

-に

て、

傘下

県の

府工

作員を

すべ

迭し

た。

個の

遊撃

(

1 5)

弁事処

任に

聞直

系の

高級

領を

た。

中、

誕仁

J

靖国は

察巽辺

区の

陣、

県に

近づ

くこ

かっ

が、

他の

名は

隊を

きい

地へ

むか

た。

度ばか

閣の

巻き

しも

程度成

た。

ば、

省西

部で

県に

事処が

綬が

任し

が、

彼は

軍の

連隊

長を

長に

じ、

軍事に

行政

衆運

動の

兼管を

なっ

た。

若干

進歩的県

長を

排除し

軍・

新軍の

食糧

員等の

(

1 6)

補充

妨害し

た+

とい

う。

た、

南部に

着任

孫楚は

後し

晋城

陽城

長治

長子

屯留

関・

沢・

氾水

二日

平・

陵川

等一

県の

犠盟

長を

(

1 7)

した+

央軍の

援助

孫楚に

陽城

軍九

隊を

接収さ

と、

第五

員戎伍勝は

長一

人と

第三

専貝の

駐在地

氾県に

移動する

余儀な

(

1 8)

くさ

う。

上の

うに

闇錫山

側が

省内の

所で

長に

抜擢した

結果

多くの

県で

閣錫

山・

犠盟会

長の

象を

した

して

犠盟

会県

長も

衆の

持を

動+

開し

防戦に

た。

くし

者の

盾は

尖鋭化

し、

統一

戦線の

局は

触即

発の

危機を

むか

( 7 3 ) 新 軍 事 件

なっ

た。

(

1)

先生

念集』

北、

九六

年、

頁。

闇錫

故国内

幕+

放日

報』

四四

年八

月一

日、

参照

(

2)

羅貴波

十二

西

軍+

報』

九六

年五

月二

(

3)

(

4)

調査

計局

西

坂変

兵象+

(

下、

兵象)

史料

扁』

第三

冊、

八一

(

5)

犠盟

会、

十二

変″+

報』

九五

八年

月二

(

6)

象、

八一

(

7)

書、

〇頁

(

8)

陳克寒『

抗日

拠地

箕察

区』

慶・

華日

館、

九三

年、

(

9)

抗日

根拠地

彙集

第二

輯・

之部』

四一

年、

-一

七一

(

1 0)

象、

八一

(

n)

羅貴波

(

1 2)

健民

党史稿』

第三

編、

台北

六五

年、

九五

(

1 3)

具象

八二

(

1 4)

滅共

裏貝会調

西

西

調

書』

年、

貞(

陸海

書マ

収)

(

1 5)

象、

八三

(

1 6)

羅貴波

(

17)

具象

八三

(

1 8)

第二

令部

西

事処

告+

慶・

葦北

察団

告書』

海日

領事

調

訳、

頑固

子+

動揺分子+

進歩勢力+

合い

省内

各地

する

なか

で、

月一

日、

党・

犠盟会は

各々

議声明

した

党の

声明

は、

聞そ

人へ

言辞

なが

守以

来、

年の

夏以

来、

西の

抗戦

陣営の

部に

種々

異常事

態が

た。

すべ

動揺分

子・

固分

子・

分子

活躍

始め

た+

暗に

閻錫山

側の

し、

山西の

抗戦

士・

胞・

各派

各界の

愛国

士は

意し

警戒

ない+

決意を

述べ

た。

して

声明

段で

抗戦

持の

箇条の

-反

漢好運

動の

展開

抗日

統一

戦線の

化、

すべ

進歩的

事業の

-を

(

1)

5

起し

た。

発表さ

犠盟

会声明

も、

会の

一 橋論叢 第七 十 五 巷 第五 号 ( 7 4 )

産党か

らの

性を

しな

党と

戦方

(

2)

掲げて

とい

う。

が、

頃、

闇錫山は

統一

戦線を

放り

積り

あっ

た。

月、

閻は

靖国

長捷

撃の

準備を

命じ

た。

時、

彼は

腹心の

部下

ちに

して

なっ

新軍

犠盟を

処理

し、

案する

提携の

針を

採っ

み、

存の

的が

(

3)

達せ

う+

説い

とい

う。

月、

闇は

中日

提携+

第一

歩を

踏み

た。

月一

日、

臨扮

劉村で

王・

陳の

下二

名が

最初の

和平+

交渉を

もっ

る。

薄一

波に

ば、

時の

平+

件は

以下の

項目で

あっ

とい

う。

第一

晋接写は

中国

抗日

勇先

鋒隊』

編し

をお

う。

本軍は

牌県

午城

蒲県

勅香鎮など

拠点か

撤退

し、

将来は

扮陽

帯の

晋綴軍に

譲渡

して

巌屯さ

すべ

し。

第二

軍は

綴軍

援助

して

西の

路軍

決死

隊を

掃すべ

し。

第三

軍は

軍に

弾薬を

補給

すべ

し。

第四

軍は

西

(

4)

領の

屋・

財産を

全に

すべ

し+

今回

試み

り、

協定

妥結に

なかっ

うで

る。

が、

新軍

事件+

勃発

した

時日

革と

卵亡

J

西

軍が

とっ

置か

ら、

者の

部分

意が

(

5)

られ

推測

る。

最低

限、

件+

諒解は

あっ

たの

なか

うか

けれ

ば、

軍の

眼の

前で

模な

戦行

為は

しえ

ちが

ない

て、

以上の

終え

閻錫山

新軍

着手

する

最初に

撃目

して

選ば

決死二

縦隊で

あっ

た。

は、

部隊が

川の

閣「

令部+

ら比

較的

近い

西

南地

区で

動して

らで

ある

末、

閣は

捷を

剃坂軍

総司

令+

任じ

た。

陳は

同月二

日、

西

軍を

路に

け、

縦隊

令部所在地

(

隈県の

義泉

黄土)

西

駐在地

(

降頻

孝義両

境)

進攻を

命じた

隊に

は、

月一

日、

月五

日、

蒲路の

震県

間を

大挙

して

よ+

とい

旨の

冬季攻

勢が

電命さ

た。

時、

逸か

臨扮ま

蒲路沿

線に

集結

して

た。

作戦計

画+

従っ

隊が

進軍を

開始す

と、

時を

様に

部か

頑固分

子+

抗が

( 7 5 ) 新 軍 事 件

(

6)

背後か

らは

西

軍の

撃が

た。

衛は

然の

択で

あっ

た。

が、

衛は

戦闘

を、

闘は

命を

意味し

た。

日、

縦隊

委員韓釣は

次の

うに

閣に

電し

た。

鼓に

二一

期と

し、

今後半月

於い

部隊

閣下に

報告

する

閑暇な

く、

閣下の

命令を

ん。

子は

師へ

後の

二言

申し

ぐ。

(

7)

勝利の

見え

ん+

と。

抗命電報に

接し

闇は

韓釣を

任処

分に

処し

うが

後の

あっ

た。

縦隊

うち

個連

隊は

軍晋西

隊と

もに

した

彼らは

途中

趨承

綬部

隊の

封鎖に

苦しめ

が、

日、

突破

して

離石

山・

静楽

二父

二田

圏へ

向かっ

た。

半月

後、

彼らは

範亭の

暫編

第一

師ら

合流した

方、

張文

昂・

韓鈎に

られ

(

8)

縦隊四

個連隊

ほ、

源方

面へ

逃が

薄一

波ら

合流した

で、

攻撃の

西

区に

伸び

た。

月一

(

9)

日、

趨承

綬は

臨県で

高級

幹部会議を

た。

会議の

軍を

餓え

死に

せ、

袋の

鼠に

す″

基礎に

して

彰八

彰紹

輝部三

旅〕

滅し

抗日

武装を

滅し

晋西北

掌握

て、

党の

西に

装を

尽に

よ+

とい

命令を

する

あっ

た。

彰八

旅は

年末

来、

巽中

原へ

転戦し

た一

師主

力の

西

防衛して

部隊で

あっ

た。

会議の

軍の

消滅で

知っ

続範亭ほ

途で

退

し、

嵐県

史家

荘の

彰八

駐屯

地へ

急い

だ。

座に

彰八

暫一

軒と

制が

た。

〇日

赤堅

結した

暫一

師・

彰八

旅・

決死四

隊の

幹部ほ

事会

議を

開い

た。

会議は

後の

行動計画と

作戦配置と

し、

西

軍臨時

給指揮部+

た。

続範

辛が

絵指揮に

羅貴波(

彰八

旅政

委員)

委員に

出さ

た。

年元日

範宇

遵の

根城

臨県に

けて

軍に

動員令を

下し

た。

数次の

闘をへ

て一

月一

晩、

臨県

城の

総攻

撃を

開始し

た。

日、

戦闘は

終結し

綬や

郭載

陽らは

面へ

退

散し

た。

同日

死二

縦隊

晋西

隊も

臨県に

到着し

(

10)

勢力の

合流が

成っ

た。

東南部で

も、

決死二

隊に

撃に

呼応して

当地

軍に

撃が

始め

られ

た。

闇軍の

憲章

孫楚

部隊が

軍と

撃ちに

する

好で

決死

縦隊

■7

路軍

部隊を

撃し

始めた

る。

月の

†半月

一 橋 論叢 第 七 十 五 巻 第 五 号 ( 7 6 )

中に

陽城

晋城

山・

関・

長治

高平

等の

府・

犠盟

会・

出版

社が

襲撃さ

た。

惨殺さ

五、

名、

連行さ

者一

上に

上っ

う。

閣軍の

撃に

て、

子+

適切に

処理

被害を

限に

くい

が、

(

1 1)

隊で

連隊

もが

しま

た。

て、

らの

縦隊

薄一

らと

流する

と、

薄は

自ら

抗日

総司

令+

名の

り、

決死

隊を

編し

軍を

組織し

た。

第一

長に

韓鈎が

第二

長に

侃踪が

就任

た。

決死

轄下の

府は

局に

離脱の

た。

年一

月一

期と

して

薄は

魔下の

軍を

律八

下に

組み

れ、

留・

長子

(

1 2)

嶺一

帯に

結さ

た。

(

4)

薄一

波同

幕+

報』

一九四

年八

月一

日。

羅貴

掲、

参照

(

5)

幹部

中に

隊を

抗日

勇先

隊+

組し

た(

した)

とい

述は

西

省西

情調査

書』

(

頁)

周玉

将「

事変

的一

夜+

(

旗諷諷3』

九五

年、

八七

頁)

る。

た、

軍が

して

西

軍に

力し

とい

は、

慶・

告書』

(

頁)

統範苧

西

閤錫

的一

封五

苔+

(

放日

報』

日)

える

∂∂∂

(

6)

(

7)

(

8)

(

9)

以上

韓鈎

晋西

変兵

象+

羅貴波

前掲

具象

靂貴

掲お

象、

羅貴

掲で

会議の

して

が、

上が

西の

統一

戦線に

事実

終止

(

1 3)

新軍

事件+

概要で

る。

うっ

稿で

期的

範亭

志+

(

旗諷

諷5』

九五

年、

頁)

和「

支工

抗日

長+

(

報』

六一

年八

月二

日)

県と

る。

(

1)

共産

党山

西

委員会

西

言+

放』

七・

期、

九三

年一

(

2)

Ge

O

r

的e

E・

T

名】

りマ申

喪訂

甘、

考Qヾ

C

璧ご

訂弓

ゴU

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已2

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邑打出わ}

邑○

ロ∽

+宝○

ワ一

(

3)

韓釣

西

象+

放日

報』

月一

(

1 0)掲

(

1 1)

(

12)

(

1 3)

以上

南新

西

前掲

-二

五一

頁お

羅貴波

斉武

掲書

四二

具象

新軍

乱の

確な

規模

明で

る。

ば、

西

部で

路軍

名で

あっ

とい

(

命の

海流

1中

権』

堂新

社、

年、

九一

員)

ば、

最初に

起し

隊が

約一

万五

名、

西

区の

軍が

万四

名、

名で

あっ

とい

(

くP

ーり

ヽ叫

札的

→計Q

q達

記b

山り

ヽQ

3≠

3

邑Q

弓.

St

a

已○

邑-

-

冨N

.

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-

)

東商

万一

S-

y

打e

如莞慧丸

白3

C計丸

吉m

広也

〔Q】

連3

空h

畠訂≠

く7 7 ) 新 軍 事 件

は、

新軍

件+

西の

抗日

戦線に

うか

かっ

要なこ

は、

事件が

晋祭式

区に

加え

新政

権樹

立へ

踏台″

なっ

とで

る。

省西北

区で

は、

新軍

軍側の

事的勝

利と

行し

て、

彼ら

行政

編が

敢行さ

た。

ず一

月一

日、

遊承

綬が

配して

第二

遊撃区

弁事

処を

し、

傘下

第二

四・

八・

行政

員公

署を

順次

編し

た。

遊撃区

任に

続範辛が

(

1)

任に

蔭冠

(

犠盟

幹部)

任し

た。

また

月一

軍政

幹部を

集して

最初の

晋西

会議が

催さ

た。

会議ほ

晋西

北六

施政綱

領+

定し

時に

後の

中心

作と

次の

各点

た。

第一

憲政

促進し

級政

構を

造・

化し

治・

長村長

施し

抗日

民に

論・

集会

結社

出版の

自由を

与し

参議会

備し

級行

議を

樹立

する

第二

抗日

革命の

隊を

充し

自衛軍を

し、

衆運

動を

展開する

第三

被災民

難民の

救済

累進制に

とづ

負担

減粗減息

抗日

族の

優待

共同

穀塩の

蓄等に

(

2)

法を

確定

する

うして

晋西

区の

台づ

進め

られ

る。

年秋の

団大

戦+

後に

は、

辺区

体に

晋絞辺

府が

樹立さ

れ、

続範辛

席に

就い

た。

府で

府幹部ポ

ち、

産党貝が

名、

救国

体・

党貝ら

が一

(

3)

めた

とい

う。

省東南地

区で

は、

年四

月、

産党北

局が

黎城で

高級

幹部会

議を

集し

省東

南部と

省南部の

帯を

轄す

巽南

行太岳

行政

連合

弁事処+

決議し

た。

巽南

行政

主任

(

年八

立、

任は

楊秀

峰)

西省

第三

行政

署の

協議を

て、

月、

連合

弁事処が

成立

(

主任

一 橋論 叢 第 七 十 五 巻 第 五 号 ( 7 8 )

(

4)

峰)

巽像辺区の

台が

成さ

る。

四一

年七

月に

は、

巽魯漁辺

区を

合併し

行区に

晋巽魯漁

(

5)

辺区

臨時

参議会が

た。

新政

府の

席に

楊秀

が、

副主

席に

薄一

波・

戎伍

勝の

犠盟

幹部が

出さ

た。

た一

名の

委員の

うち

産党

員は

(

6)

占め

なか

う。

上の

うに

西

着で

事件を

起点

して

察巽辺区に

抗日

根拠地

権が

まれ

なっ

た。

らの

府に

は、

察巽辺

様、

抗戦の

程で

頭角を

犠盟

子・

抗日

知識分

子が

共産

党貞以

上に

要な

権の

担い

なっ

た。

犠盟

会は

事件に

闇錫山と

挟を

分かっ

結果

閻に

(

7)

統一

戦線機能を

失し

た。

が、

省西

北地

られ

うに

農救

救等と

もに

抗日

(

8)

して

続し

た。

軍は

部名

称を

しっ

各根

拠地の

抗日

隊の

とつ

して

路軍の

統一

指揮下に

組み

た。

方、

閻錫山

軍と

私密

交渉をか

ね、

竺二

末、

共・

(

9)

降の

協定

結ぶ

至っ

た。

犠盟

会に

結集

抗日

民は

事件+

とい

禍を

福に

た。

彼らの

もの

は、

平+

従の

国で

くて

立と

放の

国で

あっ

とい

う。

して

戦後に

国人

国共

党に

くだ

審判

なっ

る。

(

1)

西

西

調査

書』

-三

(

2)

抗日

戦争時

放区

概況』

社、

九五

年、

(

3)

I

s

Pe-

Epst

e

b

息毒

計訂礼

知箋Q

㌻㌻q

C

監・

喜-

UOS

t

Oロ‥

H

L什t-

e、

3Wロ

COこ

芸㍗

(

4)

前掲

書、

-四

八、

(

5)

右、

九一

(

6)

況』

-六

(

7)

(

8)

政治』

(

9)

薄一

藤間錫

敵叛

幕+

(

二橋

博士

頼)