新軍事件 : 山西省における抗日闘争の転換点 url …...(65) 新 軍 事 件 根 拠...
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Hitotsubashi University Repository
Title 新軍事件 : 山西省における抗日闘争の転換点
Author(s) 内田, 知行
Citation 一橋論叢, 75(5): 545-560
Issue Date 1976-05-01
Type Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL http://doi.org/10.15057/11727
Right
新
軍
事
件
1--
山
西
省に
お
ける
抗日
闘争の
転換点
-
( 6 3 ) 新 軍 事 件
はドレ
め
に
一
九
三
七
年九
月、
山
西
抗
戦が
始め
られ
た
時、
閻錫
山の
軍政
両
面に
わ
た
る
権力
は
ま
だ
ゆる
ぎ
ない
もの
の
よ
うに
思
わ
れ
た。
一
〇
万を
超す
兵
力を
擁する
山
西
軍が
省内の
主
要
都市に
配備さ
れ
て
い
た。
だ
が、
そ
の
主
力
軍
を
投入
した
折
口
鎮の
陣地が
一
一
月
初め
突破さ
れ
る
と、
山西
軍の
抗
戦意
欲は
急
速に
失わ
れ
て
い
っ
た。
こ
れ
は、
敵軍兵
器の
優秀
性
を
まの
あた
り
に
し
た
時陣地
戦以
外の
戦法を
知ら
ず、
確固
たる
政
治
思
想を
も
たぬ
軍隊が
陥る
通
弊で
あっ
た。
三
八
年
に
入る
と、
前年
一
一
月
九
日
の
大
原占
領の
の
ちび
と
息つ
い
て
い
た
日
本
軍は
、
新た
に
山
西
南部作戦を
開
始し
た。
そ
こ
内
田
知
行
で、
省都を
追
わ
れ
臨扮に
寓居を
か
ま
え
て
い
た
閻錫山
は、
二
月
末同地
を
び
き
払い
、
さ
らに
南方へ
落ちの
び
る
こ
と
を
余
儀な
くさ
れ
た。
三
月
末い
っ
ぱ
い
に
ほ
省南部の
主
要都市
は
ほ
と
ん
ど日
本
軍の
手
中に
入っ
て
し
まっ
た。
こ
の
結果
、
閻錫山
を
頂点と
する
山西
省の
旧
行政
権カは
完膚な
きま
で
の
打撃を
うけた
わ
けで
あっ
た。
だ
が、
全
省
陥
落は
山
西
抗日
勢力の
消
滅を
意味して
は
い
なか
っ
た。
前年九
月
以
来、
朱
徳魔
下の
八
路軍三
万
余
名
は
日
本
軍
後方で
遊撃戦や
運
動戦を
展開
して
い
た
し、
闇錫
山
に
も
強
力
な
持ち
駒が
ひ
とつ
あっ
た。
犠牲救国
同
盟
会
(
以
下、
犠盟
会)
が
そ
れ
で
あ
る。
犠盟
会は
闇錫
山
を
総会長と
して
三
六
年九
月に
発足し
た、
統一
戦線形
式の
大
衆組織で
脚
一
橋論叢 第 七 十 五 巻 第 五 号 ( 6 4 )
あっ
た。
抗戦後の
犠盟
会の
活
動に
は
め
ざ
ま
しい
もの
が
あ
っ
た。
日
本
軍の
侵攻に
遭遇
し
て
旧
来の
県
政
機
構が
崩壊し
たの
ち、
被陥落地
域に
抗日
行政
を
再
建した
の
は
犠盟
会で
あ
り、
仝
省陥
落の
頃に
は
省内
一
〇五
県の
う
ち
八
〇
県
前後
が
犠盟
会
糸遊撃県
長の
指導す
る
とこ
ろ
と
なっ
て
い
た。
犠
盟
会は
また
、
青年抗
敵決死
隊・
エ
人
武装
自衛隊
・
少
年先
鋒隊
な
どの
軍隊を
建設
しっ
つ
あっ
た。
こ
れ
ら
犠盟会
指
揮
下の
部隊と
続範亭を主
任と
する
戦地
総動員委員会指揮下
の
保安
第二
区
支隊
(
の
ち
暫編
第一
師)
とを
総
称
して
当
時
「
山
西
新軍+
と
言い
、
聞直
系の
山
西
軍か
ら
区
別
した
。
さ
らに
犠盟
会は
、
大
衆(
と
り
わ
け
農民
層)
の
組
織化に
も
尽
力
した
。
た
と
え
ば
農民
救国
会に
つ
い
て
み
る
と、
三
八
年二
月
末まで
に
原
点救数九三
(
五
台
地
区
を
除
く)
、
会員総数
一
一
五
万
九
七二
三
名を
か
ぞ
え
た
が、
こ
の
組織工
作に
お
け
る
犠盟
会の
貢献は
衆目の
一
致
す
る
とこ
ろで
あっ
た。
犠盟
会は
畠
救の
ほ
か
に
も、
青年救
国
会・
婦女
救国
会・
エ
人
救
(
1)
国会など
の
抗日
大
衆団
体
を
省内
各
地に
組織した
。
犠盟
会は
全
省陥
落以
降も
山
西の
抗日
戦線の
なか
で
重
要
な
位置を
占め
る
が、
そ
れ
と
並
行し
て
闇錫山との
あ
い
だ
に
尖鋭な
矛
盾が
形
成さ
れ
て
い
く。
そ
し
て
矛
盾は
、
三
九
年一
二
月、
「
新軍
事件+
と
して
爆発する
。
省西
南部
・
西北
部・
湖
東南
部に
活
動する
犠盟
会指導下の
新
革各
軍が
山
西
軍の
攻
撃に
抗し
て一
斉に
八
路軍の
隊
列へ
合
流し
た
事件で
ある
。
そ
れ
で
は、
全
省陥
落か
ら
事件勃
発まで
の
時期
、
犠盟会
を
め
ぐる
山
西の
抗日
戦線の
あ
り
方は
どの
よ
う
な
もの
で
あ
っ
た
の
か。
犠盟
会と
聞と
の
あい
だ
に
形
成
さ
れ
た
矛
盾とは
ど
の
よ
う
なも
の
で
あっ
た
の
か。
ま
た、
爆発
した
矛
盾は
ど
の
よ
うな
形で
止
揚さ
れ、
そ
れ
は
事件以
後の
抗日
闘
争に
な
に
を
も
た
ら
した
の
で
あ
ろ
うか
。
本稿で
は
以
上の
諸
点
を
考え
(
2)
て
み
た
い。
(
1)
拙稿
「
犠牲救
国
同
盟
会
史序論
-抗日
戦争初
期に
お
け
る
山
西
省の
民
族
統一
戦線と
民
衆
動員+
『
季
刊
現
代
史』
第六
号、
一
九七
五
年八
月、
参照
。
(
2)
なお
、
本
稿は
前記
拙
稿の
続編
と
して
の
意
図を
もっ
て
執
筆さ
れ
た。
あ
わ
せ
て
参照
して
い
た
だ
けれ
ば
幸い
で
あ
る。
三
八
年春
、
日
本
軍は
山
西南
部作戦を
完
了
し、
主
力
軍を
山
西か
ら
撤兵さ
せ
た。
こ
の
頃に
なる
と、
省内の
遊撃地
域
に
は
抗日
の
新
段階が
到来しっ
つ
あっ
た。
すな
わ
ち、
抗日
( 6 5 ) 新 軍 事 件
根拠地の
形
成で
あ
る。
ま
ず一
月
中
旬、
省東北
部を
含む
晋
(
山
西)
察(
チ
ャ
ハ
ル)
糞(
河
北)
辺
区
政
府が
成
立し
、
っ
い
で
五
月に
は
省東南部で
根拠地
建設の
気運が
高まっ
た。
そ
れ
で
は、
根拠地の
政
治
運
営に
お
い
て
犠盟
会は
い
か
な
る
位置
を
占め
る
こ
と
に
なっ
た
で
あ
ろ
うか
。
山
西
省
東北
部・
チ
ャ
ハ
ル
省
西南
部・
河
北
省西
部に
ま
た
が
る
晋察巽辺
区は
、
八
路革
一
一
五
師
副師
長南栄
藻・
犠盟■
会幹
部宋郡
文
らが
蒋介石
・
閣錫山の
許可をへ
て
樹立し
た
政
府で
ある
。
一
月、
山
西
省境に
ち
か
い
河
北
省阜平で
同
辺
区
軍
政
民
代
表
大
会が
開か
れ
た
時、
こ
の
政
府の
最高権力
機
関と
して
九
名か
ら
なる
臨時
行政
委員会が
発足した
。
そ
の
構成
は
同
辺
区に
お
ける
統一
戦線の
あ
り
方
を
象徴し
て
い
た。
九
名の
委
員中
、
国民
党を
代表
す
る
者は
一
名(
劉臭基)
、
共産
党か
ら
は
二
名
(
斎栄
藻、
孫志
遠)
、
犠盟
会か
ら
は
三
名(
宋那
文、
李木…
庸、
婁凝先)
で
あっ
た。
残り
三
名
中、
張蘇は
共
産主
義青
年団の
経歴が
あっ
た
が、
こ
の
時は
チ
ャ
ハ
ル
省蔚県
県
長と
して
、
国民
党貝胡仁杢
は
孟
県
県
長と
し
て
政
府に
参画
して
い
た。
東北
出
身の
呂
正
挽は
旧
東北
軍
と
河
北
民
兵と
を
合
体
さ
せ
て
造っ
た
河北
抗日
人
民
自
衛軍の
指
揮官で
あっ
た。
また
、
国
民
党代
表
劉莫基の
発
言に
よ
れ
ば、
「
共
産主
義者の
影
響力が
き
わ
め
て
大きい
こ
と
は
はっ
き
り
し
て
い
る
が、
(
辺区)
政府
に
お
い
て
も、
県の
統
治
に
お
い
て
も
共
産党の
メ
ン
バ
ー
た
ちは
疑い
な
く
少
数
派に
と
ど
まっ
(
1)
て
い
る+
と
い
うこ
とで
あっ
た。
だ
か
ら、
共
産
党は
前年
一
一
月に
八
路
軍の
軍
事力
を
基
礎に
して
晋察糞軍区
(
司
令、
帝栄
藻)
を
設立
し、
辺
区の
軍権をが
っ
ちり
掌握
して
い
た
に
しろ
、
行
政
権は
ま
ぎ
れ
も
な
く
犠盟
会に
代
表さ
れ
る
統一
戦線勢力が
担っ
て
い
た
(
行政
委主
席は
宋
郡
文)
。
換言
す
れ
ば、
同
辺
区で
は
共
産党は
自らが
前面に
立っ
て
事を
な
す
の
で
は
な
く、
犠盟
会と
い
う
閣錫山の
「
御墨付+
を
得た
組
織を
媒介と
して
辺
区を
運
営して
い
た
と
理
解
し
て
よ
か
ろ
う。
省東南地
区で
は、
五
月、
同地
区に
対
する
日
本
軍の
掃討
作戦を
八
路
軍一
二
九
師が
撃退す
る
と、
第三
・
五
区
行政
専
(
2)
貝と
して
当
地
抗日
県
政の
指導に
あ
たっ
て
い
た
犠
盟
会の
薄
一
波・
戎伍勝
は、
八
路軍の
援助
を
え
て
県政
機構
改造工
作
に
着手
し
た
(
こ
の
事笑も
、
政
権を
担う
犠盟
会・
軍権を
担
う八
路
軍の
組み
合
わ
せ
を
示
唆して
興
味
深い)
。
県
政
の
改
造は
、
各県に
行政
会
議を
設
立し
、
ま
た
行政
会
議の
上
に
は
軍隊を
中
心
と
し
た
「
軍政
委員会+
を
設
置し
て
こ
れ
に
臨時
(
3)
的上
級政
権の
機
能
を
担わ
せ
る
こ
とか
ら
始め
ら
れ
た。
54 7
一 橋論叢 第 七 十 五 巻 第 五 号 ( 66 )
晋察巽辺
区で
も
省東
南地
区
で
も、
行政
会
議は
政
府に
よ
る
大
衆動
員・
指導
、
政
府に
対
する
大
衆の
批
判・
主
張を
効
果的
に
実
現
する
た
め
の
重
要な
手
段で
あっ
た。
晋察巽辺
区
の
場合
、
「
一
定
期
間(
県で
は
半月
、
辺
区
で
は一
月)
に一
回
県ない
し
辺
区
行政
会
議が
開か
れ、
県
長や
辺区
行政
職
貝
が
出席し
て
そ
の
間の
政
府工
作を
報告する
。
他
方、
各大
衆
団
体は
行
政
会
議の
開
催前に
自己の
組織系統を
通じ
て、
政
府工
作に
対
す
る
各団
体
内
外の
大
衆の
批
判や
意見を
結集
す
(
1)
る+
。
行政
会議は
ま
さ
に
各
階
級
各
階層
よ
り
なる
統一
戦
線
を
体
現す
る
民
意機関で
あっ
た。
省東
南地
区の
資料に
よ
る
と、
こ
の
会議で
は
県
長・
犠盟
特
派
員・
主
張公
道
団
長が
常
務委員と
な
り、
県
長が
会
議の
主
席を
つ
と
め
た。
そ
の
構
成
分
子は
、
各種大
衆団
体か
らの
代表と
地
区
選
挙に
よ
り
選
出
さ
れ
る
代表
との
二
種類あっ
た。
前者に
つ
い
て
は、
農救よ
り
三
名、
犠盟会
・
公
道
団・
工
救・
青
救・
麻救
・
教
員救国
会よ
り
各々
二
名
を
派
遣し
、
後者に
つ
い
て
は、
各区
よ
り
代
表三
名(
人口
の
多い
区は
四
名)
を
選
出した
。
こ
の
ほ
か
「
士
紳代
表+
す
な
わ
ち
地
主ブ
ル
ジ
ョ
ア
層よ
り
三
名の
参加が
認
(
5)
め
られ
て
い
た。
こ
の
会議に
お
い
て
も、
行政府の
場合と
同
様、
犠盟
会の
優
越的
指導
性が
保
証さ
れ
て
い
た。
とい
うの
は、
公
道
団は
名目
上
は
犠盟
会と
並ぶ
指導的
組織で
あっ
た
脚
が、
現
実に
は
抗戦以
来
有名
無実
な
存在と
化し
て
お
り、
県
(
6)
長の
多くは
犠盟
会
員で
あっ
た
か
らで
あ
る。
ま
た、
公
道
団
以
外の
大
衆団
体
は
犠盟
会ない
し
八
路
軍に
よ
り
抗戦後敵城
さ
れ
た
も
の
ば
か
り
だっ
たか
らで
あ
る。
そ
こ
で、
軍
権を
掌
握
する
八
路軍と
む
す
ん
だ
犠盟
会は
、
抗日
根拠地の
最有力
政
治
組
織た
り
え
た。
山
西
省
西北
部の
場合
、
行
政
会
議に
や
や
類似す
る
機
能を
果た
して
い
た
の
は
戦地
捻動
員委
員会で
あっ
た。
こ
の
組
織
は、
三
七
年九
月、
闇錫
山の
発令に
よ
り
閣の
参謀綻範亭を
主
任と
し
て
成立
し、
新
兵の
動員
・
人
民
自
衛隊の
組織化
・
(
7)
塩抹
運
輸・
傷病兵
護送
・
間
諜工
作な
どを
任
務と
し
て
い
た。
そ
の
構成
分
子は
、
県政
府・
犠盟
会・
公
道団
・
そ
の
他の
大
(
8)
衆団
体・
八
路軍
等駐屯
軍代
表者らで
あっ
た。
戦地
捻
動員
委員会は
、
県政
府
が
体
裁を
と
と
の
え
る
こ
と
が
で
き
ず、
八
路
革
も
同地
域に
適切
な
根拠地
を
樹立
する
こ
と
が
で
き
な
か
っ
た
三
八
年に
は、
単な
る
民
意機関
とい
うよ
り
む
しろ
半政
権
的
組
織で
あっ
た。
こ
の
組
織に
お
い
て
も
犠盟
会が
他の
団
(
9)
体に
まさ
る
指導性を
有
して
い
た
こ
と
は
想像に
難くない
。
以上の
よ
うに
、
犠盟
会は
根拠地
政
治の
か
なめ
で
あっ
た
「
( 6 7 ) 新 軍 事 件
とい
え
よ
う。
そ
して
、
犠盟
会は
政
権を
統轄し
、
行政会
議
や
戦地
総
動
員委員会を
主
導する
こ
と
に
よ
っ
て、
下
か
らの
民
衆エ
ネ
ル
ギ
ー
を
民
衆運
動に
具象化さ
せ、
そ
れ
に
よっ
て
抗日
政府
を
強化
す
る
こ
と
をめ
ざ
して
い
た
の
で
あ
る。
こ
の
よ
うな
犠盟
会の
姿勢は
そ
の
「
合理
負担+
の
財政
政
策に
よっ
て
も
う
か
が
うこ
とが
で
き
る。
た
と
え
ば、
犠盟
会
幹部で
あ
り
晋察巽辺
区
政
府主
席で
も
ある
宋
郡
文
は、
「
合
理
負担+
実
行の
た
め
に
次の
よ
うな
方
法と
原
則と
を
提起
し
て
い
る。
方
法と
して
は
「
(
一
)
民
衆を
発
動し
て、
県政
府
に
『
負担の
合
理
化』
の
執行を
請求
し、
財産十
万元
以上の
者を
特等戸と
し、
特
等戸の
負担と
普
通
戸の
そ
れ
と
の
問
に、
相当の
開き
を
設けて
、
以て
割当の
不
合
理を
免れ
る。
(
二)
特等
戸の
灘款〔
強
制
割当
金〕
負担総数を
百
分の
七
十、
普
通
戸の
負担を
百
分の
三
十
と
する
。
(
三)
各
県に
於
け
る
特
別
戸の
特別
負担
数額と
各
村負担数
額は
、
各
村々
民
大会に
ょ
っ
て
討論決
定
する
。
…
…
我々
は、
川
累進率を
と
る。
惚
総財産額を
以て
計
算し
、
単なる
地
畝
を
以て
計
算し
ない
。
㈲
貧窮者は
一
律に
免除
する
。
こ
の
三
つ
の
原
則に
依
拠し
て
(
1 0)
負担の
合
理
化
を
遂
行せ
ね
ば
な
ら
ない+
。
宋郡
文
は
こ
こ
で、
累進制に
も
と
づ
い
て
「
特
等戸+
か
らは
高
額の
寄付
金
(
現
実に
は
税金)
割当
を
行ない
、
貧民
は一
律免
除する
よ
うに
、
大
衆を
発動し
て
県
政
府に
執行をせ
まる
こ
と
を
主
張し
て
い
る。
宋の
見解を
閣錫山の
「
合
理
負担+
と
比
較し
て
み
れ
ば、
そ
の
階
級
性は
明ら
か
で
あ
る。
閣は
三
七
年八
月
末(
ない
し
九
月
初)
、
省政
府
名
義に
よ
り
「
山西
各村
合理
負
担
弁
法+
を
公
布し
た。
こ
の
「
合
理
負担
弁
法+
は
「
利銭を
得る
の
人
は
負担を
重
く
し、
財産
有
る
人
ほ
負担
を
多く
し、
腋銭多き
人
また
負担を
多く
す+
と
規定
して
い
た
もの
の、
たっ
た一
旬
「
累進率+
の
字句
を
入
れ
なか
っ
た
た
めに
、
な
ん
ら
負担
は
合
理
的
なも
の
と
は
な
ら
な
かっ
た。
現
実に
は、
「
百
畝の
耕地
を
所有す
る
人は
十
元
を
出し
、
一
畝の
人は
一
角
〓
元
の
十
分の
こ
を
出す
。
十
ロ
あ
る
家
は一
元を
出し
、
一
口
の
(
1 1)
人は
一
角を
出す+
とい
う
代
物で
あっ
た。
そ
れ
で
は、
犠盟会の
「
合理
負担+
は
どの
よ
うに
民
衆エ
ネル
ギ
ー
を
運
動に
結晶さ
せ
え
た
で
あ
ろ
うか
。
「
合理
負担+
が
民
衆運
動を
誘導し
県
政
改
革を
実
現さ
せ
た
例と
し
て、
こ
こ
で
は
三
八
年の
和服県
を
挙
げ
る
こ
とが
で
き
る。
省東南部
の
和
順県で
は、
日
本軍に
よ
る一
時的な
同
県
占
領が
四
月に
お
わ
る
と、
す
ぐさ
ま
戻っ
た
八
路
軍
部隊が
、
犠盟
会工
作
員
9
と
協同で
本
格的大
衆動
員に
着手
した
。
彼らは
ま
ず、
時期
朗
一 棟論 叢 第 七 十 五 巻 第 五 号 ( 6 8 )
が
ちょ
う
ど
「
麦及
購
穀の
刈入
れ
を
前に
控へ
た
絶好
機+
で
あっ
た
の
を
利用
し
て
無
報酬で
農民の
刈入
れ
作業を
援助
し
た。
さ
らに
刈入
れ
完了
後、
「
豊
民の
納税及
小
作
料の
納入
を一
時
停止せ
し
め
る
減
租
減息
宣
伝を
な
し、
更に
国
共
合
作
の
公
認
的ス
ロ
ー
ガ
ン
た
る
『
民
族救亡
抗戦に
力
あ
る
者は
力
を
出せ
。
金
あ
る
者は
金を
出せ』
を
引
用し
て、
青年層に
は
抗戦政
策の
純理
性よ
り
滅租減
息を
宣
伝し
、
貧農
大
衆に
は
経
済
的利
益
観念に
併せ
て
救国
抗戦に
力
量按分
負担の
名
分
を
附して
大
衆の
絶対
的
支
持を
得、
少
数の
富農に
対
し
て
は
反対
の
行
動は
も
と
よ
り、
声さ
え
も
出さ
せ
ない
様に
大
衆の
圧
力を
以て
完全
に
之
を
圧
服せ
しめ
た。
更に
こ
れ
を
闇錫山
時代に
公
布せ
る
合
理
負担に
結
び
付
け、
富農富
戸に
ほ
高
率
累進賦
課を
な
し
貧農
は
之
を
救
済し
っ
つ
抗
戦財源を
出さ
せ
る
様に
宣
伝し
、
此の
宣
伝と
民
衆団
体の
赤
色
組
紙拡
大化
に
伴び
て
県
治
政
権の
掌握に
進ん
だ+
。
す
な
わ
ち、
大
衆運
動の
盛
り
あ
が
りに
よっ
て
「
闇錫山
系県
長の
張
雨
帆に
段
階
的
高
度の
赤色
行
政
政
策の
執行を
迫っ
た+
の
で
あ
る。
そ
の
顕著
な
例
ほ、
七
月、
「
抗戦期の
合
理
負担と
して
富戸に
対
し
て
は
緊急
費と
して
借款に
名を
語り
て
没
収
を
な
し、
若し
軍用
代
購に
応ぜ
ざれ
ば、
民
衆団体
は
漢紆的
行
為と
し
物品を
投
収
す
る
の
み
な
ら
ず社
会
的制
裁を
加へ
る
等+
の
処
置を
迫っ
脱
た
ケ
ー
ス
で
あ
り、
こ
れ
に
よっ
て
張雨
帆を
辞職に
追い
込ん
だ。
続い
て
後任
県
長も
、
一
一
月、
「
共
産党貝と
称
せ
ら
る
現
偽県
長の
郡
肇祥と
更
迭+
さ
れ、
県政
改
革は
一
応の
結
着
(
1 2)
を
み
た。
こ
こ
に
示
さ
れ
た
「
段階的
高度の
赤
色行政
政
策+
の
実現
は
犠盟
会の
農民
階級路
線の
勝
利、
閣錫山の
地
主
階
級
路線の
敗北
を
意味して
い
た。
前者の
勝
利は
閣の
階
殻
的
基
盤の
消滅で
は
ない
に
して
も、
そ
の
確実な
制限で
あっ
た。
闇の
官許政治
団体
、
しか
も
省内の
最有
力政
治
団
体は
、
根
拠地
や
遊撃区
で
勤労
人
民の
階
級
性を
代
表す
る
こ
とに
よっ
て
着実に
聞か
ら
自立
しっ
つ
あっ
た。
うと
ま
しい
存在に
転
化
し
っ
つ
あっ
た。
以
上が
、
三
八
年春
以
降進行中
で
あっ
た
犠盟
会を
め
ぐ
る
抗日
戦
線の
姿で
あっ
た。
(
1)
以
上、
安
井三
吉
「
抗
戦
初
期
華
北の
抗日
民
族
統一
戦
線
-晋
察
巽辺
区
軍政
民
代
表
大
会
を
め
ぐっ
て+
『
歴
史評
論』
二
六
九
号、
一
九七二
年一
一
月、
七六
-七
八
頁
(
2)
行
政
督
察
専
貝制
は、
三
七
年秋
全
省
を七
地
区に
分け
て
設
置さ
れ
た
「
遊
撃
行政
区+
政
治
主
任
制
を三
八
年
初め
改
組し
た
もの
。
前
掲
拙
稿、
七
七
-七
八
頁
参照
。
(
3)
斉武
『
一
斗
革
命根
据地
的
成
長』
人
民
出
版
社、
一
九五
七
年、
四
八
-四
九
頁
( 6 9 ) 新 軍 事 件
(
4)
延
安
時
事
問
題
研
究
会
『
抗観
中的
中
国
政
治』
延
安・
新
華書
店、
一
九
四
〇
年、
四五
九
頁
(
5)
同
右、
四
八
六
頁
(
6)
前
掲拙
稿、
八
三
頁
(
7)
満鉄
調査
部
『
支
部
抗
戦
力
調
査
報
告』
三一
書
房、
一
九
七
〇
年、
一
七
三
頁
(
8)
同
右、
一
七
六
頁
(
9)
前
掲
拙
稿、
七一
頁
(
1 0)
刈屋
久太
郎
訳編
『
支
部
員村
経
済の
新
動
向』
生
活
社、
一
九
四
〇
年、
五
四
頁
(
1 1)
同
右、
四
九
-五
一
頁
(
1 2)
杉
山
部
隊
宣
撫班
『
赤
色
抗日
県
政
府
ノ
県
汚
行
政』
一
九
三
九
年、
四
-五
頁(
旧
陸海
軍
関
係文
書マ
イク
ロ
・
フ
ィ
ル
ム
所収)
〓
閣錫
山は
以
上の
現
実
を
どの
よ
うに
受け
と
め
て
い
た
の
で
あ
ろ
うか
。
聞の
不
安の
兆
候は
早
くも
晋察巽辺区
成立の
翌
月に
み
られ
る。
三
八
年二
月一
六
日、
闇は
臨扮
県
裏陵で
会
議を
主
宰し
た
が、
こ
こ
で
彼は
開
店休業中の
「
民
族
革命同
(
1)
志
会+
を
再
発
足さ
せ
た。
そ
の
意図は
、
腹心の
部下た
ちを
自己の
周
辺に
再
結束さ
せ
て
「
一
人
歩き+
する
か
も
しれ
ぬ
犠盟
会
勢力
を
監
視
し
ょ
うと
する
こ
と
に
あっ
た
と
察せ
ら
れ
る。
だ
が、
こ
の
時に
は
彼の
不
安
は
まだ
具
体
的で
は
な
かっ
た。
闇が
は
じ
め
て
不
安
を
明
確に
表
明
した
の
は、
七
月
吉
県
で
開か
れ
た
高級
幹部会
議の
席上
で
あっ
た。
羅貴波に
よ
れ
ば、
こ
の
会議で
閣は
次の
よ
うに
述べ
た
と
い
う。
「
抗戦以
来
晋接写は
すっ
か
り
消
失し
て
し
まっ
た
が、
八
路
軍
だ
け
は
減少せ
ず増加
して
さ
え
い
る。
そ
の
う
え
『
犠
盟
会』
『
決
死
隊』
ほ
八
路革と
合
作し
て
い
る。
今後我々
に
は
どこ
に
立
脚
(
2)
すべ
き
地が
あ
る
だ
ろ
うか+
と。
こ
の
時閣は
、
「
一
方
で
は
旧
軍
〔
聞直
系の
山
西
軍〕
拡充に
懸
命と
な
り、
他方
で
は
新
軍に
対
し
て
支
援か
ら
制
限に
ま
わ
り、
『
動
員
委
員
会』
を
取
消そ
う、
『
同
志
会』
を
『
犠盟
会』
に
取っ
て
か
わ
ら
せ
よ
う
(
3)
と
い
う空
気を
醸
成し
た+
と
い
う。
一
〇
月、
聞は
ふ
た
た
び
吉
県に
幹部
会
議を
召
集し
た。
今
回
は
単な
る
反
犠盟
会ム
ー
ド
醸成
か
ら
進
ん
で、
具
体
的
攻
勢
が
か
け
られ
た。
「
会
議の
結
果、
つ
い
に
四
個の
決
死
縦
隊
を
教
導師に
改
組
し、
人
民
武装
自
衛隊
・
遊撃隊
を
政
治
保
衛隊
に
改
組して
、
同氏の
直接管理
と
し
た。
ま
た、
中
央
政
府の
法
令に
も
と
づ
き
国
民
抗敵自
衛団
組
織
規則と
実
施弁
法
とを
一.
⊥
頒布
し、
〔
そ
れ
に
も
と
づ
き
自衛
団
を〕
成
立
さ
せ、
犠盟
会
心
一
橋 論叢 第 七 十 五 巻 第 五 号 ( 7 0 )
魔
下の
農救
・
工
救・
青
救・
婦
救
等組織を
改
編
する
よ
う
各
(
4)
区
県に
通
令し
た+
。
当
時、
すで
に
決死
隊の
各
縦
隊は
八
路
軍
部隊と
友
軍関
係を
む
すん
で
い
た。
決死
一
縦隊は
省
東南
部の
太
岳太
行の
山
岳地
区で
一
二
九
師と
、
二
縦
隊は
省
西
部
地
区で
一
一
五
師
晋酉支
隊と
、
三
縦隊は
省
南部の
太
岳山中
で
八
路
軍晋
漁辺区
遊撃支
隊と
、
四縦
隊は
省西北
地
区
で一
(
5)
二
〇
師と
、
各々
協同
作戦を
お
こ
なっ
て
い
た。
結局
、
決死
隊を
八
路軍か
ら切
り
離
し
教
導師と
し
て
自己の
監
視下に
お
こ
うと
す
る
企
図は
失
敗した
。
国
民
党例文
書は
そ
の
理
由を
、
決死隊の
「
各部
隊は
各
地
に
散駐
して
お
り、
集中が
む
ずか
し
く、
か
つ
共
産党式の
政
治
委員制
度が
依然と
して
存在し
て
お
り、
い
わ
ゆ
る
『
新
軍』
は
独
立の
指揮
系
統を
成立
さ
せ
(
6)
て
い
た+
か
ら
と
して
い
る。
が、
な
に
よ
り
も
大
き
な
理
由は
、
決死
隊に
は
抗日
人
民の
信頼と
支
持が
寄せ
ら
れ
て
い
た
こ
と
で
あっ
た。
闇の
第一
波攻
勢は
ま
ずは
撃退
さ
れ
た。
三
九
年春
、
根拠地の
大
衆運
動は
闇の
妨
害に
も
か
か
わ
ら
ず確実に
一
歩前進を
示
し
て
い
た。
東南
部の
根
拠地で
は、
従
来分
散
活
動し
て
い
た
各大
衆団
体が
統一
指導部を
次々
と
結成
した
。
ま
ず二
月七
日
工
救総会が
成
立
し、
三
月八
日
に
ほ
麻激論
会が
、
一
二
日
に
は
会員七
〇
万を
擁する
畠救糸会
が、
一
八
日
に
は
青
救総会が
順次
成立
し
た。
そ
して
同
月二
彪-h
J
九
日
に
は、
こ
れ
らの
大
衆団
体を
統一
指導す
る
「
晋東南各
(
7)
界救
国
連合
会+
が
結成さ
れ
た。
晋
察責辺
区で
も、
大
衆運
動の
前進が
み
られ
た。
た
と
え
ば、
す
で
に
前年三
月工
救・
(
8)
麻
救と
と
も
に
発
足して
い
た
辺
区
員
救が
、
三
九
年五
月中
旬、
第二
次
辺区
代
表大
会を
召
集
し
た。
こ
こ
で
は
以
後の
農
民運
(
9)
動方
針を
詳細に
規定
し
た
綱領が
新た
に
採択さ
れ
た。
以
上
の
よ
うに
、
根拠地
人
民の
エ
ネ
ル
ギ
ー
は
八
路
軍や
犠盟会の
擁護の
下で
大
衆運
動の
成
長と
して
一
層の
高揚を
み
つ
つ
あ
っ
た。
言っ
て
み
れ
ばこ
れ
は、
「
合理
負担+
に
象徴
さ
れ
る
よ
うな
、
統一
戦線
を
基
礎と
した
勤労人民
路
線の
た
ま
もの
で
あっ
た。
だ
が、
闇錫山に
は
こ
の
よ
う
な
潮
流を
容認す
る
こ
と
が
で
き
なかっ
た。
な
ぜ
な
ら、
和
順県の
例で
み
た
よ
うに
、
め
ざ
め
た
人
民の
エ
ネ
ル
ギ
ー
こ
そ
が
閻の
権力を
再興
不
能と
す
る
カ
で
あっ
た
か
らで
ある
。
省
東南部で
民
衆の
エ
ネ
ル
ギ
ー
が
統一
し
た
カを
形
成
しっ
つ
あっ
た
ちょ
う
ど
そ
の
頃、
闇錫山
は
ふ
た
た
び
犠盟
会に
陰
険な
攻
撃を
しか
けて
き
た。
三
月、
駅西
省宜
川
県の
秋
林
鎮で
開
催さ
れ
た
軍
政
民
高級幹部
会議
が
そ
れ
で
ある
。
こ
の
会
議の
模様
を
国
民
党例
文
書は
次の
よ
( 7 1 ) 新 軍 事 件
うに
明
らか
に
して
い
る。
閣錫山が
会
議を
召
集
する
と、
「
旧
派
分
子
は
犠盟を
猛
烈に
攻
撃
し
た。
闇氏の
犠盟
抑制意
思も
ま
た
比
較的
強固で
あっ
た。
そ
の
結果
、
従
来よ
り
存在
し
た
民
族
革
命同
志
会を
強化し
、
閣が
自ら
そ
の
会
長に
任
じ、
旧
派
人物に
そ
の
高級
幹部の
ポ
ス
ト
の
多数を
担当
さ
せ
る
よ
う決
定し
た。
さ
らに
『
犠公』
〔
犠盟
会
と
公
道
団
と
の
合
同
協議機関〕
を
同
志
会の
外
郭組織に
確定し
た。
ま
た
閣は
、
犠盟会に
暫
時
発展を
停止
する
よ
う
指示
し、
各行政
督察
専
員の
権力を
縮小
し、
県
長の
自由な
任
命派
遣を
禁じ
、
各
行
政
区の
保
安
司
令に
は
正
規軍の
連隊
長か
ら
選
抜任命して
保
安
隊の
指揮
・
訓
練の
責任
を
負わ
せ、
各専員の
軍
権を
減少
さ
せ
た。
新
軍を
教導
軍に
改
編する
か、
あ
るい
は
保
安隊に
編
入
し、
教
導軍は
閣自身が
総司
令に
任
じ、
副
司
令に
は
楊
愛源を
任じ
て、
一
三
個旅団計三
九
個連隊を
管轄する
こ
と
と
した
。
決死
一
縦
隊は
独
立一
旅
二
二
六
旅に
、
二
縦
隊は
独
立二
旅・
一
九六
旅に
、
三
縦
隊は
独
立三
旅・
一
九七
旅に
、
四
縦
隊
は
独
立七
旅・
二
〇三
旅に
、
政
治
保
衛隊は
二
〇
九・
二
二一
・
二一
三
・
二一
五
など
の
旅団に
、
エ
人
自
衛隊と
一
(
1 0)
部の
遊
撃隊ほ
二一
七
旅に
改
編さ
れ
た+
。
闇は
こ
の
時、
会
議に
出
席し
た
新
軍の
政
治
委員を
軟禁し
、
人
を
やっ
て
「
勧
導+
した
り
「
思
想
続
こ
を
図っ
た
り
昇進
・
昇給をエ
サ
に
(
])
買収しょ
うとい
うこ
と
ま
で
し
た。
新
軍改
編の
決定は
当
然
の
こ
と
なが
ら
犠盟
会の
激しい
抗議を
うける
こ
とに
なっ
た。
もっ
と
も、
こ
の
時
犠盟会が
発表し
た
抗
議声明
ほ
閣そ
の
人
を
名
指し
で
批
判
する
こ
と
は
避
け、
もっ
ぱ
ら
側近の
王
靖国
や
陳長
捷を
「
頑固分
子+
「
合法
的
漢紆+
と
して
糾
弾
し
て
(
1 2)
い
た
とい
う。
勿論こ
れ
は
統一
戦線に
対
する
政
策的配
慮で
あっ
た。
さ
らに
四
月二
五
日、
秋
林鎮会議の
決定に
力を
得た
民
族
革命同
志
会は
拡大
幹部
会
議を
召
集
し
た。
会議で
は、
同
志
会を
第二
戦区
軍政
民運
動の
統一
指導組織と
して
確定
し
強
化
す
る
こ
と、
同志
会
指導
下の
青
年
組
織と
して
民
族
革命青
年団を
、
そ
の
外
郭団体
と
して
「
犠公+
を、
そ
の
大
衆
団
体
と
して
貞救
・
工
救・
青救
・
婦
救・
児救を
各々
確定
する
こ
(
13)
と
等が
決定さ
れ
た。
こ
れ
は、
犠盟
会が
他の
大
衆団
体に
対
して
もっ
て
い
る
地
位を
奪取し
そ
れ
に
よっ
て
自立
的
大
衆運
動を
管
理
しょ
うと
い
う企て
を、
露骨に
現わ
して
い
た。
し
か
し、
今
回の
闇錫山や
同志
会の
策
動も
ど
れ
だ
け
効果
を
あ
げ
た
か
は
疑わ
しい
。
新
軍
部
隊の
改
編を
断行しょ
うに
ウ
J
も、
闇の
権力の
基
礎で
あ
る
山
西
軍
主力
ほ、
日
本
軍
との
交
舶
一 橋論叢 第 七 十 五 巻 第 五 号 ( 7 2 )
戦を
避
ける
よ
うに
して
省
西
南
部の
後方
地
区に
駐屯
して
い
た
か
らで
ある
。
伯
方、
新軍の
多くは
日
本
軍
後方
地
域で
遊
撃活
動に
挺身し
て
お
り、
彼ら
は一
片の
改
編
指令に
動
揺す
る
よ
う
な
部隊で
は
な
かっ
た。
当
時の
日
本
側文
献の
見る
と
こ
ろに
よ
れ
ば、
「
晋
南地
区に
駐
屯
する
部
隊
は
と
に
角、
晋
北
地
区に
於ける
新
軍に
対
す
る
旧
軍の
統制権は
成
立
し
なか
っ
た。
新軍内に
於け
る
晋軍
系の
軍
人は
軍内で
孤
立し
て
ゐ
た
た
め、
全
体を
動か
すこ
とが
出来なか
っ
た。
新軍の
指導
権を
掌握し
て
ゐ
る
犠盟会
員を
除外
して
、
如何
な
る
改
編も
(
叫)
不
可
能で
あっ
た+
。
や
が
て
闇錫山
は、
さ
らに
大
胆な
手を
打っ
た。
政治
主
任
制と
し
て
発足し
た
現
行の
行
政
督察専貝制の
上に
省政
府弁
事処を
設
置す
る
こ
とに
よ
り、
犠盟
会
系専員の
実
権を
骨ぬ
き
に
し
よ
うと
し
たの
で
あ
る。
闇は
全
省を
四
個の
遊撃区に
区
分し
、
各々
に
省
政
府
弁事処を
置い
た。
各遊
撃区に
は
総
指揮
一
人
を
任
命し
、
総指揮が
弁
事処主
任
を
兼
務
し、
遊撃
区
全
体の
軍
政
大
権を
統帥する
こ
とに
なっ
た。
閻は
こ
の
際
に、
犠盟
会
幹部が
掌握
する
三
個の
専
貝公
署
-薄
一
波の
第三
区、
戎伍勝の
第五
区、
張文
昂の
第六
区
-に
つ
い
て、
傘下
各
県の
県
政
府工
作員を
すべ
て
更
迭し
た。
四
個の
遊撃
(
1 5)
区
弁事処
主
任に
は
聞直
系の
高級
将
領を
あ
て
た。
四
名
中、
誕仁
J
王
靖国は
晋
察巽辺
区の
本
陣、
五
台
県に
近づ
くこ
と
が
で
き
な
かっ
た
が、
他の
三
名は
軍
隊を
ぴ
きい
て
任
地へ
むか
っ
た。
今
度ばか
り
は
閣の
巻き
返
しも
あ
る
程度成
果
を
得
た。
た
と
え
ば、
省西
北
部で
は
興
県に
弁
事処が
設
置
さ
れ
遭
承
綬が
着
任し
た
が、
彼は
「
旧
軍の
連隊
長を
県
長に
任
じ、
軍事に
よ
る
行政
・
民
衆運
動の
兼管を
お
こ
なっ
た。
こ
れ
に
よ
り
若干
の
進歩的県
長を
排除し
、
八
路
軍・
新軍の
食糧
・
兵
員等の
(
1 6)
補充
を
制
限
し
妨害し
た+
とい
う。
ま
た、
東
南部に
着任
し
た
孫楚は
「
前
後し
て
晋城
・
陽城
・
長治
・
長子
・
屯留
・
東
関・
安
沢・
氾水
二日
同
平・
陵川
等一
〇
県の
犠盟
会
県
長を
更
(
1 7)
迭
した+
。
中
央軍の
援助
を
え
た
孫楚に
陽城
で
新
軍九
個
連
隊を
接収さ
れ
る
と、
第五
区
専
員戎伍勝は
県
長一
〇
余
人と
も
ど
も
第三
区
専貝の
駐在地
氾県に
移動する
こ
と
を
余儀な
(
1 8)
くさ
れ
た
と
い
う。
以
上の
よ
うに
、
闇錫山
側が
省内の
い
た
る
所で
旧
派
分
子
を
県
長に
抜擢した
結果
、
多くの
県で
閣錫
山・
犠盟会
両
派
県
長の
並
存
現
象を
呈
した
。
こ
れ
に
対
して
犠盟
会県
長も
、
大
衆の
支
持を
バ
㌢
ク
に
「
反
頑
固
分
子
連
動+
を
展
開し
、
防戦に
つ
と
め
た。
か
くし
て
両
者の
矛
盾は
尖鋭化
し、
統一
戦線の
政
局は
一
触即
発の
危機を
むか
え
る
( 7 3 ) 新 軍 事 件
こ
と
に
なっ
た。
(
1)
『
閤
伯
川
先生
紀
念集』
台
北、
一
九六
三
年、
一
八
頁。
「
薄
一
波
同
志
掲
露
闇錫
山
通
敵
故国内
幕+
『
解
放日
報』
、
一
九
四四
年八
月一
四
日、
参照
。
(
2)
羅貴波
「
十二
月
事
変
与
山
西
新
軍+
『
人
民
日
報』
、
一
九六
二
年五
月二
二
日
(
3)
同
右
(
4)
国
民
党
中
央
調査
統
計局
「
山
西
新
軍
坂変
之
兵象+
(
以
下、
兵象)
『
共
匪
禍
国
史料
彙
扁』
第三
冊、
一
八一
頁
(
5)
江
地
「
犠盟
会、
決
死
隊
和
ク
十二
月
政
変″+
『
光
明
日
報』
、
一
九五
八年
一
二
月二
五
日
(
6)
具
象、
一
八一
頁
(
7)
斉
武
前
掲
書、
二
六
〇頁
(
8)
陳克寒『
模
範
抗日
根
拠地
箕察
晋
辺
区』
重
慶・
新
華日
報
館、
一
九三
九
年、
六
六
頁
(
9)
『
抗日
根拠地
政
策
条
例
彙集
第二
輯・
晋
察
巽
之部』
、
一
九
四一
年、
一
六
七
-一
七一
頁
(
1 0)
夷
象、
一
八一
頁
(
n)
羅貴波
前
掲
(
1 2)
王
健民
『
中
国
共
産
党史稿』
第三
編、
台北
、
一
九
六五
年、
一
九五
頁
(
1 3)
具象
、
一
八二
頁
(
1 4)
中
央
滅共
裏貝会調
査
部
『
山
西
省
西
北
部
匪
情
調
査
報
告
書』
、
一
九
四
〇
年、
六
貞(
旧
陸海
軍
関
係
文
書マ
イ
ク
ロ
・
フ
ィ
ル
ム
所
収)
(
1 5)
兵
象、
一
八三
頁
(
1 6)
羅貴波
前
掲
(
17)
具象
、
一
八三
頁
(
1 8)
「
第二
戦
区
司
令
長
官
司
令部
駐
西
安
弁
事処
報
告+
『
重
慶・
葦北
視
察団
報
告書』
、
上
海日
本
総
領事
館
特
調
班
訳、
三
二
頁
三
「
頑固
分
子+
「
動揺分子+
と
「
進歩勢力+
と
の
鍔
ぜ
り
合い
が
省内
各地
で
エ
ス
カ
レ
ー
ト
する
なか
で、
一
〇
月一
〇
日、
共
産
党・
犠盟会は
各々
抗
議声明
を
発
した
。
共
産
党の
声明
は、
聞そ
の
人へ
の
批
判
的
言辞
は
避
け
なが
ら
も
「
臨
紛
失
守以
来、
と
り
わ
け
今
年の
夏以
来、
山
西の
抗戦
陣営の
内
部に
種々
の
異常事
態が
発
生
し
た。
すべ
て
の
動揺分
子・
頑
固分
子・
保
守
分子
が
活躍
を
始め
た+
と
暗に
閻錫山
側の
動
き
を
批
判
し、
「
わ
が
全
山西の
抗戦
将
校
兵
士・
同
胞・
各
党
各派
各界の
愛国
的
志
士は
、
深
く
注
意し
深
く
警戒
を
せ
ざ
る
を
え
ない+
と
そ
の
決意を
述べ
て
い
た。
そ
して
、
声明
は
後
段で
抗戦
堅
持の
た
め
三
箇条の
方
針
-反
漢好運
動の
展開
、
抗日
統一
戦線の
強
化、
すべ
て
の
進歩的
事業の
堅
持
-を
(
1)
5
提
起し
て
い
た。
同
日
発表さ
れ
た
犠盟
会声明
も、
同
会の
共
朗
一 橋論叢 第七 十 五 巷 第五 号 ( 7 4 )
産党か
らの
独
立
性を
明
言
しな
が
ら
共
産
党と
同
じ
抗
戦方
針
(
2)
を
掲げて
い
た
とい
う。
だ
が、
す
で
に
こ
の
頃、
闇錫山は
統一
戦線を
放り
だ
す
心
積り
で
あっ
た。
一
〇
月、
び
そ
か
に
閻は
王
靖国
・
陳
長捷
ら
に
新
軍
攻
撃の
準備を
命じ
た。
こ
の
時、
彼は
腹心の
部下
た
ちに
対
して
「
い
ま
と
なっ
て
は
新軍
・
犠盟を
処理
し、
日
本
の
提
案する
中
日
提携の
方
針を
採っ
て
の
み、
生
存の
目
的が
(
3)
達せ
ら
れ
よ
う+
と
説い
た
とい
う。
翌
月、
闇は
早
速
「
中日
提携+
へ
の
第一
歩を
踏み
だ
し
た。
一
一
月一
日、
臨扮
県
劉村で
王・
陳の
部
下二
名が
日
本
軍
と
最初の
「
和平+
交渉を
もっ
た
の
で
あ
る。
薄一
波に
よ
れ
ば、
こ
の
時の
「
和
平+
条
件は
以下の
四
項目で
あっ
た
とい
う。
「
第一
、
晋接写は
『
中国
抗日
忠
勇先
鋒隊』
に
改
編し
反
共
をお
こ
な
う。
日
本軍は
牌県
・
午城
・
蒲県
・
勅香鎮など
の
拠点か
ら
撤退
し、
将来は
扮陽
一
帯の
地
区
を
晋綴軍に
譲渡
して
巌屯さ
すべ
し。
第二
、
日
本
軍は
晋
綴軍
を
援助
して
山
西の
八
路軍
・
決死
隊を
一
掃すべ
し。
第三
、
日
本
軍は
晋
綴
軍に
武
器
弾薬を
補給
すべ
し。
第四
、
日
本
軍は
山
西
軍
各
将
(
4)
領の
家
屋・
財産を
完
全に
返
還
すべ
し+
。
今回
の
交
渉
は
初
め
て
の
試み
で
あ
り、
協定
妥結に
は
至
ら
なかっ
た
よ
うで
あ
る。
だ
が、
や
が
て
「
新軍
事件+
が
勃発
した
時日
本
革と
山
卵亡
J
西
軍が
とっ
た
措
置か
ら、
両
者の
あ
い
だ
に
部分
的
合
意が
得
(
5)
られ
た
こ
と
が
推測
さ
れ
る。
最低
限、
「
新
軍
事
件+
の
対
応
を
め
ぐ
る
諒解は
あっ
たの
で
は
なか
ろ
うか
。
で
な
けれ
ば、
日
本
軍の
眼の
前で
あ
れ
ほ
ど
大
規
模な
内
戦行
為は
な
しえ
な
か
っ
た
に
ちが
い
ない
。
さ
て、
以上の
布
石
を
終え
た
閻錫山
は
い
よ
い
よ
新軍
攻
撃
に
着手
する
。
最初に
攻
撃目
標
と
して
選ば
れ
た
の
は
決死二
縦隊で
あっ
た。
そ
れ
は、
こ
の
部隊が
宜
川の
閣「
司
令部+
か
ら比
較的
近い
省
西
南地
区で
活
動して
い
た
か
らで
ある
。
一
一
月
末、
閣は
陳
長
捷を
「
剃坂軍
総司
令+
に
任じ
た。
陳は
同月二
九
日、
山
西
軍を
三
路に
分
け、
二
縦隊
司
令部所在地
(
隈県の
義泉
・
黄土)
と
八
路
軍
晋
西
支
隊
駐在地
(
降頻
・
孝義両
県
県
境)
へ
の
進攻を
命じた
。
ま
た
二
縦
隊に
は、
一
二
月一
日、
「
一
二
月五
日、
同
蒲路の
震県
・
霊
石
区
間を
大挙
して
攻
撃
せ
よ+
とい
う
主
旨の
冬季攻
勢が
電命さ
れ
た。
当
時、
日
本
軍
は
平
逸か
ら
臨扮ま
で
の
同
蒲路沿
線に
集結
して
い
た。
与
え
ら
れ
た
「
作戦計
画+
に
従っ
て
二
縦
隊が
進軍を
開始す
る
と、
時を
あ
わ
せ
た
様に
内
部か
ら
ほ
「
頑固分
子+
の
反
抗が
、
( 7 5 ) 新 軍 事 件
(
6)
背後か
らは
山
西
軍の
攻
撃が
始
め
ら
れ
た。
自
衛は
当
然の
選
択で
あっ
た。
だ
が、
自
衛は
戦闘
を、
戦
闘は
抗
命を
意味し
た。
七
日、
二
縦隊
政
治
委員韓釣は
次の
よ
うに
閣に
通
電し
た。
「
鼓に
一
二
月
二一
日
を
期と
し、
今後半月
内
に
於い
て
は
わ
が
部隊
は
閣下に
報告
する
閑暇な
く、
閣下の
命令を
奉
ぜ
ざ
る
こ
と
あ
ら
ん。
小
子は
恩
師へ
最
後の
二言
を
申し
あ
ぐ。
(
7)
勝利の
の
ち
相
見え
ん+
と。
抗命電報に
接し
た
闇は
韓釣を
解
任処
分に
処し
た
と
い
うが
、
後の
祭
り
で
あっ
た。
二
縦隊
の
うち
、
六
個連
隊は
八
路
軍晋西
支
隊と
と
もに
北
上
した
。
彼らは
途中
、
趨承
綬部
隊の
封鎖に
苦しめ
ら
れ
た
が、
三
〇
日、
つ
い
に
こ
れ
を
突破
して
離石
・
方
山・
静楽
二父
城
二田
の
安
全
圏へ
向かっ
た。
半月
後、
彼らは
続
範亭の
暫編
第一
師ら
と
合流した
。
他
方、
張文
昂・
韓鈎に
ひ
き
い
られ
た
二
(
8)
縦隊四
個連隊
ほ、
犯
源方
面へ
逃が
れ
薄一
波ら
と
合流した
。
つ
い
で、
攻撃の
手
は
西
北
地
区に
も
伸び
た。
一
二
月一
六
(
9)
日、
趨承
綬は
臨県で
高級
幹部会議を
召
集
し
た。
会議の
目
的
は
「
〝
八
路
軍を
餓え
死に
さ
せ、
袋の
鼠に
し
て
殺
す″
を
基礎に
して
、
彰八
旗
〔
一
二
〇
師
彰紹
輝部三
五
八
旅〕
を
消
滅し
、
地
方
抗日
武装を
消
滅し
、
晋西北
を
掌握
し
て、
共
産
党の
山
西に
お
け
る
抗
日
武
装を
一
網
打
尽に
せ
よ+
とい
う
閻
の
命令を
具
体
化
する
こ
と
で
あっ
た。
彰八
旅は
、
三
八
年末
以
来、
巽中
平
原へ
転戦し
た一
二
〇
師主
力の
あ
と
を
ひ
き
継
い
で
西
北
地
区
を
防衛して
い
た
部隊で
あっ
た。
会議の
ね
ち
い
が
友
軍の
消滅で
あ
る
こ
と
を
知っ
た
続範亭ほ
中
途で
退
席
し、
嵐県
史家
荘の
彰八
旅
駐屯
地へ
急い
だ。
即
座に
彰八
旅
と
暫一
軒と
の
共
闘
体
制が
で
き
あ
が
っ
た。
三
〇日
、
赤堅
嶺
に
集
結した
暫一
師・
彰八
旅・
決死四
縦
隊の
軍
政
幹部ほ
軍
事会
議を
開い
た。
会議は
以
後の
行動計画と
作戦配置と
を
決
定
し、
「
山
西
新
軍臨時
給指揮部+
を
成
立
さ
せ
た。
続範
辛が
絵指揮に
、
羅貴波(
彰八
旅政
治
委員)
が
政
治
委員に
選
出さ
れ
た。
四
〇
年元日
、
統
範宇
は
遵の
根城
、
臨県に
む
けて
全
軍に
動員令を
下し
た。
数次の
戦
闘をへ
て一
月一
四
日
晩、
新
軍
各
軍
は
臨県
県
城の
総攻
撃を
開始し
た。
一
六
日、
戦闘は
終結し
、
趨
承
綬や
郭載
陽らは
吉
県
方
面へ
退
散し
た。
同日
、
決
死二
縦隊
・
晋西
支
隊も
臨県に
到着し
、
二
つ
の
新
(
10)
軍
勢力の
合流が
成っ
た。
東南部で
も、
決死二
縦
隊に
対
す
る
攻
撃に
呼応して
当地
の
新
軍に
対
す
る
攻
撃が
始め
られ
た。
闇軍の
金
憲章
・
孫楚
部隊が
、
日
本
軍と
挟
み
撃ちに
する
恰
好で
決死
一
・
三
縦隊
■7
と
八
路軍
部隊を
攻
撃し
始めた
の
で
あ
る。
一
二
月の
†半月
郎
一 橋 論叢 第 七 十 五 巻 第 五 号 ( 7 6 )
中に
、
陽城
・
晋城
・
浮
山・
壷
関・
長治
・
高平
等の
県
政
府・
犠盟
会・
抗
日
的
出版
社が
襲撃さ
れ
た。
惨殺さ
れ
た
者
五、
六
百
名、
連行さ
れ
た
者一
〇
〇
〇
名
以
上に
も
上っ
た
と
い
う。
閣軍の
攻
撃に
対
し
て、
一
縦
隊
は
内
部
の
「
頑
固
分
子+
を
適切に
処理
し
被害を
最
少
限に
くい
と
め
た
が、
三
縦
(
1 1)
隊で
は
四
個
連隊
もが
瓦
解
し
て
しま
っ
た。
や
が
て、
張
文
昂
らの
二
縦隊
が
薄一
波
らと
合
流する
と、
薄は
自ら
「
抗日
鉄
血
軍
総司
令+
を
名の
り、
決死
隊を
再
編し
て
二
軍を
組織し
た。
第一
軍
長に
は
韓鈎が
、
第二
軍
長に
は
牛
侃踪が
就任
し
た。
決死
隊
管
轄下の
各
県
政
府は
省
政
府
当
局に
離脱の
通
電
を
発
し
た。
四
〇
年一
月一
九
日
を
期と
して
、
薄は
魔下の
新
軍を
一
律八
路
軍
指
揮
下に
組み
入
れ、
屯
留・
長子
両
県
県
境
(
1 2)
の
黒
石
嶺一
帯に
集
結さ
せ
た。
(
4)
「
薄一
波同
志
掲
露
閻
錫
山
通
敵
数
回
内
幕+
『
解
放
日
報』
、
一九四
四
年八
月一
四
日。
羅貴
波
前
掲、
参照
。
(
5)
旧
軍
幹部
が
事
件
中に
部
隊を
「
中
国
抗日
忠
勇先
鋒
隊+
に
改
組し
た(
し
ょ
う
と
した)
とい
う
記
述は
、
『
山
西
省西
北
部
匪
情調査
報
告
書』
(
七
頁)
や
周玉
将「
晋
酉
事変
中
的一
夜+
(
『
紅
旗諷諷3』
、
一
九五
七
年、
二
八七
頁)
に
見
え
る。
ま
た、
日
本
軍が
事
件
に
際
して
山
西
軍に
協
力し
た
とい
う
記
述
は、
『
重
慶・
華
北
視
察
団
報
告書』
(
三
九
頁)
や
統範苧
「
寄
山
西
土
皇
帝
閤錫
山
的一
封五
千
言
苔+
(
『
解
放日
報』
、
一
九
四
四
年
八
月
二
四
日)
に
見
える
。
∂∂∂
(
6)
(
7)
(
8)
(
9)
以上
、
「
韓鈎
同
志
談
晋西
事
変兵
象+
お
よ
び
羅貴波
前掲
具象
、
一
八
田
頁
靂貴
波
前
掲お
よ
び
具
象、
一
八
五
頁
羅貴
波
前
掲で
は
こ
の
会議の
開
催
地
を
興
県
と
して
い
る
が、
以
上が
、
山
西の
統一
戦線に
事実
上
の
終止
符
(
1 3)
「
新軍
事件+
の
概要で
あ
る。
を
うっ
た
本
稿で
は
南
新
宙
「
抗
戦
初
期的
続
範亭
同
志+
(
『
紅
旗諷
諷5』
、
一
九五
七
年、
二
四
六
頁)
お
よ
び
康
永
和「
一
支工
人
抗日
自
衛
隊
的
成
長+
(
『
人
民
日
報』
、
一
九
六一
年八
月二
二
日)
に
も
と
づ
い
て
臨
県と
す
る。
(
1)
「
中
国
共産
党山
西
省
委員会
‥
関
於
堅
持
山
西
抗
戦
克
服
危
険
傾
向
宣
言+
『
解
放』
第
八
七・
八
八
合
期、
一
九三
九
年一
〇
月
(
2)
Ge
O
r
的e
E・
T
名】
。
♪
→
計
りマ申
喪訂
甘、
考Qヾ
爵
C
已
璧ご
ゥ
訂弓
ゴU
ユ【
‥Ⅰ
ロSt
i
t
已2
0{
勺
邑打出わ}
邑○
ロ∽
+宝○
、
ワ一
票
(
3)
「
韓釣
同
志
談
晋
西
事
変
兵
象+
『
解
放日
報』
、
八
月一
四
日
九
四
四
年
(
1 0)掲
(
1 1)
(
12)
(
1 3)
以上
、
南新
西
前掲
、
二
四
六
-二
五一
頁お
よ
び
羅貴波
前
斉武
前
掲書
、
四二
頁
具象
、
一
八
五
頁
新軍
反
乱の
正
確な
規模
ほ
不
明で
あ
る。
チ
ャ
ル
マ
ー
ズ
ジ
ョ
ン
ソ
ン
に
よ
れ
ば、
西
北
部で
八
路軍
に
合
流
し
た
新
軍
は
三
万
名で
あっ
た
とい
う
(
『
中
国
革
命の
海流
1中
国
農
民
の
成
長
と
共
産
政
権』
弘
文
堂新
社、
一
九
六
七
年、
一
九一
員)
。
ス
ラ
イ
ク
に
よ
れ
ば、
最初に
蜂
起し
た
二
縦
隊が
約一
万五
〇
〇
〇
名、
西
北
地
区の
新
軍が
一
万四
〇
〇
〇
名、
○
名で
あっ
た
とい
う
(
「
ワ
くP
ロ
ーり
ヽ叫
内
達
札的
㌧
→計Q
q達
記b
丸
山り
ヽQ
3≠
叫
3
屯
邑Q
弓.
St
a
已○
邑-
-
冨N
.
p.
-
中
一
)
。
東商
地
区
が
二
万一
〇
〇
S-
y
打e
、
如莞慧丸
設
白3
札
C計丸
吉m
広也
〔Q】
連3
空h
畠訂≠
く7 7 ) 新 軍 事 件
お
わ
り
に
そ
れ
で
は、
「
新軍
事
件+
は
山
西の
抗日
戦線に
な
に
を
も
た
ら
し
た
で
あ
ろ
うか
。
かっ
と
も
重
要なこ
と
は、
こ
の
事件が
す
で
に
あ
る
晋祭式
辺
区に
加え
て
二
つ
の
新政
権樹
立へ
の
ク
踏台″
と
なっ
た
こ
とで
あ
る。
省西北
地
区で
は、
新軍
・
八
路
軍側の
軍
事的勝
利と
並
行し
て、
彼ら
の
手
に
よ
る
行政
的
改
編が
敢行さ
れ
た。
ま
ず一
月一
五
日、
遊承
綬が
支
配して
い
た
第二
遊撃区
弁事
処を
改
編
し、
傘下
の
第二
・
四・
八・
一
一
行政
専
員公
署を
二
月
末
ま
で
に
順次
改
編し
た。
遊撃区
主
任に
は
続範辛が
、
(
1)
副
主
任に
は
牛
蔭冠
(
犠盟
会
幹部)
が
就
任し
た。
また
、
二
月一
日
に
は
軍政
幹部を
召
集して
、
最初の
晋西
北
地
区
行
政
会議が
開
催さ
れ
た。
会議ほ
「
晋西
北六
大
施政綱
領+
を
制
定し
、
同
時に
以
後の
中心
工
作と
し
て
次の
各点
を
定
め
た。
第一
、
憲政
運
動
を
促進し
、
各
級政
治
機
構を
徹
底
的
に
改
造・
強
化し
、
民
主
政
治・
区
長村長
民
選
を
実
施し
、
抗日
人
民に
は
言
論・
集会
・
結社
・
出版の
自由を
付
与し
、
参議会
を
準
備し
、
各
級行
政
会
議を
樹立
する
。
第二
、
抗日
革命の
軍
隊を
拡
充し
、
自衛軍を
強
化
し、
大
衆運
動を
展開する
。
第三
、
被災民
難民の
救済
・
累進制に
も
とづ
く
合
理
負担
・
減粗減息
・
抗日
軍
人
家
族の
優待
・
共同
穀塩の
備
蓄等に
つ
(
2)
い
て
の
方
法を
確定
する
。
こ
うして
晋西
北
辺
区の
土
台づ
く
り
が
進め
られ
た
の
で
あ
る。
四
〇
年秋の
「
百
団大
戦+
後に
は、
こ
の
辺区
を
母
体に
晋絞辺
区
政
府が
樹立さ
れ、
続範辛
が
主
席に
就い
た。
新
政
府で
は
二
四
の
政
府幹部ポ
ス
ト
の
う
ち、
共
産党貝が
七
名、
各
救国
団
体・
国
民
党貝ら
が一
七
名
(
3)
を
占
めた
とい
う。
省東南地
区で
は、
四
〇
年四
月、
共
産党北
方
局が
大
行
区
黎城で
高級
幹部会
議を
召
集し
、
省東
南部と
河
北
省南部の
一
帯を
統
轄す
る
「
巽南
大
行太岳
行政
連合
弁事処+
の
設
立
を
決議し
た。
こ
の
の
ち
巽南
行政
主任
公
署
(
三
八
年八
月
成
立、
主
任は
楊秀
峰)
・
山
西省
第三
・
五
区
行政
専
貝
公
署の
協議を
へ
て、
八
月、
同
連合
弁事処が
成立
し
た
(
主任
、
楊
湖
一 橋論 叢 第 七 十 五 巻 第 五 号 ( 7 8 )
(
4)
秀
峰)
。
こ
こ
に
晋
巽像辺区の
土
台が
完
成さ
れ
た
の
で
あ
る。
四一
年七
月に
は、
巽魯漁辺
区を
合併し
大
行区に
晋巽魯漁
(
5)
辺区
臨時
参議会が
召
集
さ
れ
た。
新政
府の
主
席に
は
楊秀
峰
が、
副主
席に
は
薄一
波・
戎伍
勝の
犠盟
会
幹部が
選
出さ
れ
た。
就
任
し
た一
五
名の
政
府
委員の
うち
共
産党
員は
六
名
を
(
6)
占め
る
に
す
ぎ
なか
っ
た
と
い
う。
以
上の
よ
うに
、
山
西
着で
は
こ
の
事件を
起点
と
して
、
晋
察巽辺区に
加
え
て
二
つ
の
抗日
根拠地
政
権が
生
まれ
る
こ
と
と
なっ
た。
こ
れ
らの
政
府に
お
い
て
は、
晋
察巽辺
区
同
様、
抗戦の
過
程で
頭角を
あ
ら
わ
し
た
犠盟
会
分
子・
抗日
知識分
子が
共産
党貞以
上に
重
要な
政
権の
担い
手
と
なっ
た。
犠盟
会は
事件に
よ
り
闇錫山と
挟を
分かっ
た
結果
、
閻に
(
7)
対
す
る
そ
の
統一
戦線機能を
消
失し
た。
だ
が、
省西
北地
区
に
み
られ
た
よ
うに
、
農救
・
工
救等と
と
もに
抗日
大
衆
団
体
(
8)
の
ひ
と
つ
と
して
存
続し
て
い
っ
た。
新
軍は
、
一
部名
称を
残
しっ
っ
各根
拠地の
抗日
軍
隊の
び
とつ
と
して
八
路軍の
統一
指揮下に
組み
こ
ま
れ
て
い
っ
た。
他
方、
閻錫山
は
日
本
軍と
の
私密
交渉をか
さ
ね、
四
三
竺二
月
末、
つ
い
に
反
共・
投
㈱
(
9)
降の
砲
塔
協定
を
結ぶ
に
至っ
た。
犠盟
会に
結集
し
た
抗日
人
民は
「
新
軍
事件+
とい
う
禍を
福に
転
じ
た。
彼らの
選
択
し
た
もの
は、
「
和
平+
と
隷
従の
中
国で
は
な
くて
、
独
立と
解
放の
中
国で
あっ
た
とい
え
よ
う。
そ
して
、
こ
れ
は
日
本
敗
戦後に
中
国人
民
が
国共
両
党に
くだ
し
た
審判
の
先
駆
け
と
なっ
た
の
で
あ
る。
(
1)
『
山
西
省
西
北
部
匪
情
調査
報
告
書』
、
二
九
-三
七
頁
(
2)
『
抗日
戦争時
期
解
放区
概況』
人
民
出
版
社、
一
九五
三
年、
九
八
頁
(
3)
I
s
↑
Pe-
Epst
e
ぎ
→
訂
b
息毒
計訂礼
知箋Q
㌻㌻q
串
訂
C
監・
喜-
UOS
t
Oロ‥
H
L什t-
e、
出
3Wロ
紆
COこ
一
芸㍗
ワ
一
芸
(
4)
斉
武
前掲
書、
四
七
-四
八、
五
〇
頁
(
5)
同
右、
九一
頁
(
6)
『
解
放
区
概
況』
、
六
三
-六
四
頁
(
7)
江
地
前
掲
(
8)
『
抗
戦
中
的
中
国
政治』
、
五
〇
七
頁
(
9)
「
薄一
波
同
志
掲
藤間錫
山
通
敵叛
国
内
幕+
(
二橋
大
草
大
学
院
博士
課
頼)