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This document is downloaded at: 2020-05-24T01:25:12Z Title <研究論文>日本事情とラテンアメリカ事情 : 共感を生み出すことの できる事情教育の必要性 Author(s) 志柿, 光浩 Citation 長崎大学外国人留学生指導センター年報. vol.2, p.42-54; 1994 Issue Date 1994-03-25 URL http://hdl.handle.net/10069/5530 Right NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

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Title <研究論文>日本事情とラテンアメリカ事情 : 共感を生み出すことのできる事情教育の必要性

Author(s) 志柿, 光浩

Citation 長崎大学外国人留学生指導センター年報. vol.2, p.42-54; 1994

Issue Date 1994-03-25

URL http://hdl.handle.net/10069/5530

Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

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日本事情とラテンアメリカ事情

一共感を生み出すことのできる事情教育の必要性-

志 柿 光 浩

はじめに

留学生などの外国人に対する、いわゆる 「日本事情」教育のあり方につい

ては、依然、模索が続いているようである。 日本の高等教育機関における日

本事情教育について、長谷川恒雄民らの研究グループが最近発表した実態調

査でも、誰が、どのような目的で、どのような方法で日本事情教育を行うか、

それぞれの教育機関や担当者によって千差万別という状況が明らかにされて

いる1)。

私も長崎大学外国人留学生指導センターに勤務中、日本の文化 ・社会に関

する教育の必要性を感じ、実際にそのような内容の授業も担当した。当時の

状況については同センターの研究報告の一部として簡単に報告したが2)、今

ふり返ってみれば、我流の試行錯誤的な教育体験の域を出なかったように思

う 。

その後、私は現勤務校に移って本来の専攻分野であるラテンアメリカ研究

に携わることになり、今度は日本人学生を対象にラテンアメリカについての

授業を担当することになった。それまで日本事情を担当していたのがラテン

アメリカ事情の教育を担当することになったわけである。

日本事情教育については、少なくともそれが未確立の分野であるという反

省があるが、ラテンアメリカ事情教育についてはそのような自覚さえないと

いうのが実情であろう。 ラテンアメリカ研究の学界でラテンアメリカを学習

者にどう教えるかなどということが問題にされることなど稀であって、それ

こそ授業担当者がそれぞれ自己流でやっている。 日本事情教育のあり方で頭

を悩ますことからは解放されたが、今度はラテンアメリカ事情教育をどう進

めていくかということで頭を悩ますことになってしまった。

しかし、どちらの 「事情教育」も、ある対象地域の外側にいる人間が、そ

の地域についての理解を深めることを目的としている点で共通している。ラ

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長崎大学外国人留学生指導センター年報 第 2号 研究論文編 1994年 43

テンアメリカ事情教育を進める上で日本事情教育の経験が参考になる場令も

あるだろうし、逆もまた然りである。

思えば日本語教育は、英語教育をはじめとして外国語教育の影響を強く受

けてきているのに、日本事情教育については、海外の留学生受け入れ先進国

の事情教育についての紹介や研究があまり見あたらないのはどうしたことな

のだろうか。外国語教育における事情教育からも参考にする点は多いはずで

ある。

以下の小論では、日本事情教育とラテンアメリカ事情教育における経秩を

もとに、何人かの論者の考え方も紹介しながら、両者を対比し、 「事情教育」

のあり方について考察する。 経験といっても拙いものだが、多少とも参考に

なれば幸いである。

1.事情とは何か

(1) 「事情」という用語

話を進めていく前に、まず 「事情」という用語について検討しておく必要

がある。「事情」という語を用いることに、すでにある立場が反映されてい

るからである。

手元の辞書にも、事情という語嚢の用例として 「事情を聞く」「事情があ

れば許す」「事情がわからない」などが挙げられているように、限定された

具体的な状況を指して使うのか、この言葉の一般的な用法である。

しかし他方で、福沢諭吉による 『西洋事情』の例をはじめとして、「外国

事情」とか 「海外教育事情視察団」などの用例もあるように、「現状」とい

う語と同義の、もう少し広い意味の用法があるのも確かである。「日本事情」

という言葉もそのような用法のものとして使われてきたのであろう。 ただし、

この場合でも 「現在の状況」という、時間的にも内容的にも限定された意味

あいをこの言葉が含んでいることは否定できない。「事情教育」のあり方を

論 じるためには、ここで使われている事情という概念の内容を整理しておく

必要がある。

(2) 日本事情教育の類型

先に紹介した日本事情教育に関する実態調査の中間報告書の中で、長谷川

恒雄氏は、広義の文化の研究 ・教育の型として図 1のような三つの型に大別

し、日本事情教育のあり方についてのいくつかの立場を整理 している3)。

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図 1

日本事情 とラテンアメリカ事情

ア)文明学型 :国家、国民を成り立たせ、脈々と連続させているものの

追求

イ)地域研究型 :現代の一般人の行動 ・生活様式、それを支える制度な

どの追求

り)異文化適応、異文化理解型 :異文化社会に入り、それを理解し、必

要な場面においては自己の行動 ・コミュニケーションの型を異文化の

それにあわせ、自己を律し調節する能力の追求

私自身はこれらの類型の内容そのものには賛成するものの、その用語には

異論がある。

まず、イ)の 「地域研究型」という用語について言えば、地域研究が現状

に強い関心を持っていることは確かだが、氏がア)の文明学に分類している

内容も地域研究の重要な研究領域である。地域研究が現状分析にのみ関心を

限定することはない。地域研究はア)の文明学とイ)の現状分析の両者にま

たがる研究分野である。

次に、ウ)の 「異文化理解型」について言えば、文明学的な文化理解、現

在の文化 ・社会の理解のどちらを欠いても異文化理解は不可能である。 文明

理解、現状理解と異文化理解とを対置させることには疑問がある。 むしろ異

文化理解は、ア)イ)ウ)の全てを総合した、事情教育の究極の目的だと言

える。

以上のように用語には異論があるが、氏ゐ提示した類型化は、内容的には

「日本事情」をめぐって生じる混乱を整理する上で、非常に有用な枠組みを

提示しているように思われる。特に、この三類型が、それぞれ 「歴史的な大

きな時間の流れ」「現代という一定の限られた時間」「個々人が直面する具体

的な局面」という三つの異なる時間的枠組みに対応している点が重要である。

先に述べた 「事情」という語の持つ用語上の問題もこの点にある。つまり

「事情」という語は一般には、限られた時間の枠組みの中での具体的な状沢

を指して使われており、初めから長谷川氏の言うイ)の型の内容と時間的枠

組みで使われる性格をもった用語なのである。

「日本事情」ではなく 「日本研究」、「日本学」、あるいは 「日本文化論」を

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長崎大学外国人留学生指導セ ンター年報 第 2号 研究論文編 1994年 45

教えるべきだとか、また逆に 「日本文化論」とは異なる 「日本事情」を教え

るべきだといった意見が出て くるのも、このような用語上の混乱に原因があ

る。

以上のことを踏まえて、事情をめぐる類型化を、図 2のように整理 し直す

ことができるように思う。

図2

ア)文明学型

イ)事情説明型

ウ)異文化適応型

地域研究型- 異文 化理 解

さて、それではこれらの全体をどのような用語で捉えるべきか。結局、消

去法を適用 していくと 「日本事情」 という用語が残って しまう。 日本文化教

育という用語ではここで対象にしようとしている領域をカバーしているとは

言えない。まして 「日本研究」とか 「日本学」といった用語では包含する範

囲があまりに限定されて しまう。 したがって、本稿でも 「事情」という言葉

を使用するが、それは本節で整理 したような内容の用語として使っているの

であり、また同 じく上述のような用語上の問題点のあることををふまえた上

でのことである。

(3) ラテンアメリカ事情教育の類型

さて、前節で整理 した事情教育の三類型をラテンアメリカ事情教育の場合

に当てはめるとどうなるだろうか。

私の場合、日本の大学でスペイン語専攻の学生にラテンアメリカ事情教育

を行っている。日本事情教育との対比で言えば、海外の教育機関での日本事

情教育に相当する。

学生の中にはラテンアメリカ地域研究そのものをめざす者 もいれば、スペ

イン語学やラテンアメリカ文学を専攻する上でラテンアメリカ事情の理解を

必要としている者 もいる。スペイン地域研究を専攻する者でもラテンアメリ

カ事情の理解が欠かせない場合がある。

また日本語教育の場合と同様に、スペイン語教育の一環として、スペイン

語が使われている文化 ・社会についての理解を深めることも重要な課題であ

る。 さらに、実際にラテンアメリカに留学 していく学生に対 しては、日本に

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46 日本事情とラテンアメリカ事情

来る留学生を対象に行われている日本事情教育の場合と同様に、異文化適応

の領域を含めたラテンアメリカ事情教育が必要となってくる。

他方、スペイン語を専攻しても全ての学生がスペイン語圏に留学 したりス

ペイン語に関連した職業に就くわけではないのも事実で、この場合には 「教

養としてのラテンアメリカ事情」ということになろうか。

何れにしても、日本事情教育と同じく前記の事情教育の三類型がラテンア

メリカ事情教育においてもあてはまる。

たとえば、私が地域研究コースで担当している 「ラテンアメリカ概論」あ

るいは 「ラテンアメリカ現代史」といった科目は、上述の類型で言えば、文

字どおりア)の文明学型およびイ)の事情説明型の 「事情教育」である。

また内容によっては、ウ)の異文化適応型の事情教育に分類されることが

含まれることもある。 例えば、宗教の問題などがある。誰かに 「あなたの宗

教は何か」と問われた時にどう対応するかという問題は、ラテンアメリカで

暮らす場合にも注意を要する問題である。この問題がどれほど重要かという

ことを理解するには、ラテンアメリカの歴史において宗教が果たしてきた役

割を理解することが不可欠である。 逆に、ラテンアメリカの歴史や現荏の杜

会を語る中で宗教について触れる時こそ、そういった異文化適応型の事情教

育を行ういい機会だとも言える。

また、私は現勤務校でスペイン語教育にも参加しているが、日本語教育と

同様、語学教育と事情教育が切り離せない場面も多い。たとえば、日本の場

合と違って先生に対 して敬称を用いない場合もあるといったことや、授業中

の質問は評価されるが授業後の個人的な質問は必ずしも評価されないといっ

たことの説明が必要になる。 もっとも、これらのことはラテンアメリカ特有

のことというよりも、海外では日本的な習慣がそのまま通用 しないことに気

づかせるという面が強く、逆の意味での日本事情教育なのかもしれない。

いずれにしても、ラテンアメリカ事情教育の実際をふり返って考えてみる

と、異なる類型に分類される目的と内容そのものが、それぞれ独立して行わ

れているというよりは、むしろ連携 ・複合した形で行われているといえる。

このことをもう一度日本事情教育に当てはめて考えると、同様のことが日

本事情でもいえる。三つの類型のどれか一つだけを行っただけでは、事情教

育の目的は達成されない。ただ、例えば日本語学校での大学進学予備教育に

おいてはある一定の部分に重点を置かなければならなくなり、大学院生に対

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長崎大学外国人留学生指導セ ンター年報 第 2号 研究論文編 1994年 47

する補習的な課程ではまた別の部分に重点を置かなければならないというよ

うに、状況によって一度にカバーできる領域は限られているということであ

る。

このように考えれば、日本でのラテンアメリカ事情教育が地域研究型、文

明学型のアプローチをとることが多いのに対 して、日々、日本の文化 ・社会

の諸現象と対峠 している外国人学習者を対象とする、日本における日本事情

教育が、事情説明型あるいは異文化適応型のアプローチをとることになるの

は当然なことである。

ただその際にも、歴史的な時間的枠組みからのアプローチ、すなわち文明

学型のアプローチを全く抜きにして異文化理解を目指す事情教育は成り立た

ないのではないかと私は考えている。次節以下では特にこの点について検討

することにする。

2.語学教育 ・事情教育と歴史性の問題

(1) 大演徹也氏の日本語教育批判

1992年 7月8日付けの 『毎日新聞』に、日本近現代史の研究者である大潰

徹也氏が筑波大学日本語 ・日本文化学頼長の肩書きで 「日本語教育に歴史 ・

文化の視点を」と題する一文を寄せている。 それは 「日本の経済力に対する

期待」によって日本語学習熱が高まる中で行われている、現在の日本語教育

に対する痛烈な批判文である4)。

その主旨は次の二点に整理することができる。 一つは現在の日本語教育あ

るいは日本語教師養成において 「日本語を生み育てた列島の文化や生活を考

察する視点」が忘れられており 「自文化に対する自覚的認識の欠落」が見ら

れること、もう一つはその中でも特に 「日本語が負わされた政治性」が認識

されておらず、具体的にはかつて日本語教育が 「(聖戦)をかかげた軍事力

を背景とする異民族の支配と教化をめざしたことに無自覚」であるというこ

とである。

前者について大済民は 「そのため日本語を母語とする教師の多くは、日本

語への疑問に言語学的な応答はなしえても、日本と日本人にかかわる多様な

問いに く日本人)としての経験則をかたるにすぎません」と断定 している。

「経験を語っているだけ」という指摘は、まさに日本事情教育の実情を衝い

ているのではなかろうか。

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48 日本事情 とラテ ンアメ リカ事情

また第二の点については、現在の日本語教育は 「経済力にものをいわせた

く善隣友好)の証として説かれすぎるのではないでしょうか」と疑問を呈し、

「日本語を日本の歴史と社会の場に位置付けるための眼を育てることが問わ

れています」と述べている。

その上で氏は、「言語教育に負わされた政治性に眼をむけ、日本語教育が国

家の端女 (はしため)であった日を想起し、日本語を生み育てた社会と文化

を自覚的に問い直さねばなりません」と日本語教育-の課題を投げかけてい

る。 これはまさしく日本事情教育が真筆に受け止めるべき課題であり、また、

これまであまり取り上げられてこなかった問題である。

(2)歴史認識の重要性 :クラーク日本論を例として

言語教育に負わされた政治性の問題については後述することとして、ここ

では大藩氏の言う 「日本語を生み育てた社会と文化」を省察することの重要

性について、グレゴリー ・クラーク氏の日本論に接し、それを日本語教育の

現場に適用した経験をもとに考えてみたい。

クラーク氏の日本論の骨子をごく簡単にまとめれば、西欧社会あるいは中

国の社会は 「イデオロギー中心の社会」なのに対して、日本社会は 「人間関

係中心の社会」だということである。そしてここが特に重要だと思われるが、

日本社会を特徴づける 「人間関係中心の社会」とは、「家族的、部族的社会

の価値観」の社会であり、元来、人間社会では一般的であった。それが、西

欧や中国では歴史的に近代民族社会を形成していく過程で 「イデオロギー中

心の社会」-移行していったのだと氏は論じている5)。

日本語の授業などの中でしばしば悩まされてきた問題、たとえば、くどう

して日本人は論理を尊重しないのか?〉、くどうして断定をさけた表現が多い

のか?)、(どうして敬語がこんなに複雑なのか?)、(主格、間接目的格、直

接目的格など 「誰が、誰に、何を」といった事実関係を明示する代名詞の体

系は発達していないのに、上下関係、ウチ ・ソト、貸し・借りの関係を示す

「やり・もらい」のような待遇表現の体系が発達しているのはなぜか?)、

これらの問題を説明する上で、クラーク氏の日本社会論は非常に効果的だっ

た 。

氏のいう 「家族的、部族的社会」は、これまでも 「ムラ社会」論として、

日本社会の排他性や国際性の欠如などを説明するのに使われてきた。クラー

ク氏の日本社会論の優れている点は、それを文明史あるいは世界史の枠組み

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長崎大学外国人留学生指導セ ンター年報 第 2号 研究論文編 1994年 49

の中で説明し、また同時に西欧あるいは中国のほうが元来の姿から逸脱ある

いは変形 していったとする点にある。このような説明を与えられることに

よって、たとえば 「論理的であること」を絶対視する文化圏から来た日本語

学習者も、それが最初から絶対真理として存在してきたのではないこと、そ

して自分たちの価値観も歴史の中で育まれてきたものであることに気づき、

日本語や日本の文化 ・社会を、より相対化した見方で捉える姿勢を身につけ

ていくことになる。

このような、文化の持つ 「歴史性」についての認識を持っことは、文化論

や社会論といった領域のみならず、言語教育や異文化適応の領域でも非常に

大きな意義を持っている。

くなぜ 「山田さんに教えてもらいました」と言わなければならないのか?

「山田さんが私に教えました」でいいではないか?>といった質問を受けた

り、口にはしないがそういった疑問を抱えていそうな学習者に接することは

多い。そのとき、日本の社会が 「人間関係中心の社会」であることを学習者

が納得していれば、日本語において授受関係にまっわる表現が発達している

ことも理解でき、日本語学習の効果も違ってくるだろう。

異文化適応の領域でも同様である。日本社会に薄気味悪さを感じたり、納

得できないことが多くて悩んでいたり、日本社会のあり方に否定的な結論を

出してしまったりしている学習者は少なくない。彼らの異文化適応を助ける

ために、ただ単に日本文化を自文化と比較してみるだけでなく、それぞれの

文化 ・社会の生成の過程を歴史的に捉える視点を提供することは、重要な意

味をもつ 。

前述のように、大濠氏は、言語教育の抱える政治性というものを指摘する

際に日本の近代化の過程を念頭に論じている。 そういった現代と直接に関わ

る政治性の問題も含めて、言語や文化が抱えているより広い意味での歴史性

というものを常に意識しておくことが、言語教育や事情教育において必要で

ある。

3.スペイン帝教育 ・ラテンアメリカ事情教育と歴史性

(1) ラテンアメリカ事情教育と歴史性

異文化理解において歴史的な視点を持つことがいかに重要であるかという

ことは、ラテンアメリカ事情教育の場合を考える時、より鮮明になる。 それ

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50 日本事情 とラテ ンアメリカ事情

は、日本で行われるラテンアメリカ事情教育が一般に地域研究的なアプロー

チをとることにもよるが、ラテンアメリカの文化 ・社会そのものが、過去

500年間の歴史を現在もさまざまな形で引きずっていることが大きな要因で

ある。

「コロンブスによる新大陸発見500周年」をめぐってさまざまな議論がなさ

れたことは記憶に新しい。コロンブスの偉業を讃える立場に対して、先住民、

黒人奴隷、その子孫達-の抑圧の出発点であったとしてこれを批判的に捉え

る立場からの反論がさまざまな形で出された。このように、15世紀末から現

在までのラテンアメリカの歴史については、現在も評価が分れているのであ

る。 このことに触れずに 「ラテンアメリカ事情」を論じることは不可能であ

る。

たとえば、「ラテンアメリカに住んでいる人達はどんな人達なんですか」

と学習者に尋ねられたとしよう。 「ラテンアメリカの人々は陽気で、ものご

とに無頓着だ」といった、よくありがちな見方は、異文化理解の妨げになる。

ラテンアメリカの社会 ・文化は、先住民、アフリカから奴隷として連れてこ

られた人々の子孫、ヨーロッパやアジアからの移民の子孫など、さまざまな

人間集団がさまざまな形で組み合さって構成されている。それを説明するの

に、その形成の歴史を語らないわけにはいかない。

現在の社会 ・文化を理解する際に、歴史的な背景の理解が直接に要求され

るというようなことはラテンアメリカ事情に限らない。アメリカ事情であれ、

フランス事情であれ同様である。 しかし、日本の場合には、いろいろな面で

同質性が高い人間集団が人口の大多数を占め、また、少数派の人間集団につ

いてはあまり意識されることがなかったために、社会や文化の母休をなす民

族集団形成の歴史的過程を抜きにして、これを論じることが当たり前のよう

になっている

(2)スペイン語教育の歴史性

さて、言語教育の抱えている歴史性の問題は、スペイン語教育については

どうだろうか。日本におけるスペイン語教育の抱える歴史性の問題を考える

前に、まず日本における外国語教育の中心をなす英語教育の抱える歴史性の

問題について考えてみよう。

日本の英語教育を観察していて感じられることは、欧米中心主義的な世界

観があまりに無反省に受け入れられてしまっているのではないかということ

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長崎大学外国人留学生指導セ ンター年報 第 2号 研究論文編 1994年 51

である。NHKの英言吾教育番組の中のスキットなどにしても、アメリカある

いはイギリスのある特定の人種階層、すなわち白人中産階級の登場する場面

に偏りすぎてはいないか。2050年までには米国社会の中で、白人に分類され

る人々の数が人口の半分以下になることが推計されていることに象徴される

ように、現在の米国社会は、非白人の移民とその子孫達が社会の重要な構成

要素となっている。そのような米国社会の状況を、日本における英語教育は

どれだけ認識しているのだろうか。現在の日本の英語教育では、一部の英語

圏社会の、これまた特定の階層の価値観のみが肯定され、学習者に示されて

いるとはいえないだろうか。

この点、日本におけるスペイン語教育には英語教育の場合に比べて幾分か、

そのような欧米中心的な世界観に対抗する、欧米世界以外との連帯の意識が

強いようである。 これは、スペイン語圏の諸国のかつての宗主国スペインが、

現代の世界においては英国や米国に比べて影響力が小さく、スペイン語使用

者数も圧倒的にラテンアメリカのほうが多いということによる。

ラテンアメリカ研究者の大久保光夫氏は、その訳書E.ガレア-ノ著 『収

奪された大地-ラテン・アメリカ500年』のあとがさで次のように述べてい

る6)。 「わたしは、何年来、折にふれては学生たちに対 して、現代において

は160を越える世界の独立国のうち130カ国余りが属する第三世界を学ばない

ことには世界は見えないだろうし、したがって世界を語る資格に欠けること

になるのではないか。第三世界のなかでもっとも代表的な言語のひとつがス

ペイン語であろう。 まずはこの言語を学んで第三世界理解の足掛かりにし、

ついで世界の トータルな理解をこころかけようではないか.そして、歴史的

には弱者の立場に立つ第三世界の立場から世界をみると、いままで見えな

かった多くのことがみえるようになるのではないかと、妙な言い方でスペイ

ン言吾学習のすすめを行ってきた...」

スペイン語教育にもややもすれば、欧米中心主義的な世界観が入り込みが

ちである。 しかし、スペイン語世界には、西欧と非西欧が日常的に葛藤して

いるラテンアメリカという世界が含まれる。このため、英語といえば米国か

英国、せいぜいオーストラリアかニュージーランドしか思い浮かばないよう

なメンタリティーが、受け入れられがちに思える英語教育の世界とは違って、

より広い視野をもった世界観、価値観を持つことが可能になる。また、西欧

による非西欧の征服の歴史の中でスペイン語の使用が広がり、現在の社会が

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52 日本事情 とラテンアメリカ事情

作り出されてきたという、スペイン語教育あるいはラテンアメリカ事情教育

の抱える歴史性に対する自覚も強くなるのである。

以上のように、言語教育や事情教育が、対象言語や対象文化が背負ってい

る歴史から無縁でいられないことは、日本語以外の言語教育、日本以外の地

域についての事情教育をみれば容易に理解されることである。しかしながら、

日本語教育あるいは日本事情教育においてはしばしばそのような視点が欠落

していないだろうか。そのような視点を欠いた言語教育や事情教育では、対

象言語を話す人々や対象文化、対象社会に対する共感は生み出されない。歴

史性の認識の伴わない言語教育や事情教育の最大の問題は、この点にある。

4.共感を生み出す事情教育をめざして

具休的なエピソー ドを紹介しよう。

それは、留学生を対象とした 「日本の生活と文化」の授業を終えて、ラテ

ンアメリカから来ていた留学生の何人かと雑談をしていた時のことだった。

私は彼らとちょっとした口論になってしまった。発端は、誰かがラテンアメ

リカにおける米国の横暴について論じていたことにあった。私が 「何もかも

米国のせいにしないで、自らの手で現状変革を目指すことを考えるべきだ」

と言ったために議論になったのである。 その中で、「米国の力はあまりにも

大きすぎる。 日本だって今日の経済的繁栄があるのは米国のおかげじゃない

か。みんな米国の援助で可能になったのだ。米国の科学 ・技術を教えてもらっ

たから今、金持ちになったんじゃないか。」そういった発言が続いた。

その時、私がむきになったのは 「ああ、この学生達は日本人に共感をもっ

ていないな、むしろ敵意さえ抱いているようだな」そんな気がしたからだっ

た。

歴史的にみれば、もちろん、戦後の日本の経済的繁栄は、米国の政策と戦

後世界の政治 ・経済的状況が直接の原因であった。しかし、戦前までの日本

の工業化、近代化がなかったならば戦後の日本の経済発展は不可能であった

ことも確かである。そして明治期以来の日本の近代化は、さらにそれ以前の

江戸時代の生産力の拡大と国内市場の形成を基盤に進められた。さらに江戸

時代の日本の経済発展は、地球規模で西欧世界の拡大が進む中で、さまざま

な要因によって日本がその荒波から身を守ることができたことではじめて可

能になったのである。

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長崎大学外国人留学生指導セ ンター年報 第 2号 研究論文編 1994年 53

このような歴史解釈には異論もあろう。 重要なのは、戦後日本の経済発展

というテーマをとってみても、それが、このように500年近 くにわたるさま

ざまな人間の歴史の積み重ねの結果だということである。ただ単に、「米国

の援助があったから日本は経済的に発展することができたのだ」という理解

は、やはり浅薄に過ぎる。

日本人はこれまで、国内では公害を撒き散らし、海外で環境を破壊し、買

春に出かけ、第 3世界の低賃金の労働者を搾取 してきた。それは確かだ。し

かし、それだけだったら日本はただの醜悪な人間の集まりに終ってしまう。

人間的な弱さを抱えながらも頑張ってきた日本の 「お父さん」「お母さん」

達のことをもう少し共感を持って見てもらえるわけにはいかないのだろうか。

ここでいう 「共感」という言葉は、「それを認める」という意味で使って

いるのではない 。 人間の憎むべき行為は否定されなければならないし、責任

も問われなければならない。ただそれはそれとして、「やっぱり、あなたが

たも弱いところもあれば、悪いこともする同じ人間なんですね」という気持

ち、それも大切ではない かと思うのである。 「あんたがたが金持ちなのは、

アメリカに助けてもらったからだろうが」と一言で片付けられてしまっては

身も蓋もない。そうではなくて、「日本人も苦労したことは認める」とか 「自

分がやれと言われればやらないけれど、あくせく働いている日本人がわから

ないわけでもない」といった、共感の気持ちをせめて持って欲しい。そういっ

た見方ができるような授業を日本事情教育も目指すべきではないだろうか。

もっとも、日本事情理解に歴史的な視点が欠けがちなのは、外国人の学習

者に限ってのことではない。 「現在の日本の経済的繁栄が可能となった理由

は何だったと思うか」と日本人学生に尋ねてみると、多 くの学生から、「そ

れは日本人が勤勉だったからだ」という答えが返ってくる。外国人の学習者

は日本の経済成長は米国のおかげだと考え、日本人は日本人が勤勉だったか

ら、などとぬけぬけと言うような状態では、十分な異文化理解の成立を期待

するのは無理である。 共感など生まれるはずがない。

もし、現在高まっている日本語学習熱や日本への留学熱が、歴史認識を伴

わず、ただ単に狭い意味での日本の現在の経済的繁栄にのみ支えられている

とすれば、そこに生み出されているブームは極めて底の浅いものであろう。

日本のバブル経済がはじけたのと同じく、そのようなブームもやがてははじ

けてしまうに違いない。

Page 14: NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITEnaosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/... · 先に紹介した日本事情教育に関する実態調査の中間報告書の中で、長谷川

54 日本事情 とラテンアメリカ事情

人類社会が地球規模で連関し合う現代にあって、日本人が異文化を深く理

解することに異を唱える人はいないだろう。 もしそうならば、他文化の人々

による日本理解も同様に深められなければならないはずである。そのために

は、より深い歴史認識に基づいた日本語学習の意欲を育み、それに応えられ

るような日本語教育、そして人間-の共感に基づいた日本理解-の意欲を青

くみ、それに応えることのできるような日本事情教育が求められている。

しかし、異文化理解の意欲が一方通行で終るようであっては共感は生まれ

ない。日本における外国語教育、外国事情教育もまた、そのような異文化理

解への意欲を育み、それに応え得るものでければならない。言い替えれば、

歴史的背景の異なる者同志が互いに共感をもって相手の言語や文化に取り組

むような異文化理解の枠組が何よりも必要とされている。

(注)

1)長谷川恒雄他 『外国人留学生のための 「日本事情」教育のあり方につい

ての基礎的調査 ・研究一大学 ・短大 ・高専-のアンケー ト調査とその報告

- 』 (1992年度文部省科学研究補助金研究成果中間報告書)「日本事情」研

究会発行、1993年

2)志柿光浩 「留学生を対象とした日本文化教育の理念と組織化に関する-

試論」長崎大学外国人留学生指導センター 『長崎大学留学生教育の理念と

組織化について :平成 2・3年度教育研究特別経費 (特別分)研究報告』

1992年、pp.44-64

3)長谷川恒雄 「(日本事情)の科目名と内容一担当教員の専門分野との関

係-」前掲、長谷川他、p.43

4)大湊徹也 「日本語教育に歴史 ・文化の視点を」 『毎日新聞』1992年 7月

8日朝刊、p.5

5)グレゴリー ・クラーク「(日本人論)を論ず一人間関係の社会と思想 (イ

デオロギー)中心の社会-」グレゴリー ・クラーク、竹村健一 (聞き手)

『ユニークな日本人』講談社現代新書、1979年、pp.174-190

6)大久保光夫 「訳者あとがき」E.ガレア-ノ 『収奪された大地-ラテン

・アメリカ500年』新版、藤原書店、1992年、p.469

(前外国人留学生指導センター講師 ・現在、常葉学園大学外国語学部助教授)